『本居宣長 「もののあはれ」と「日本」の発見』先崎彰容著

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本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―

『本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―』

著者
先崎彰容 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784106039119
発売日
2024/05/22
価格
2,090円(税込)

『本居宣長 「もののあはれ」と「日本」の発見』先崎彰容著

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

「肯定と共感」 柔らかな感性

 十八世紀に活躍した国学の大成者、本居宣長は、大著『古事記伝』において『古事記』に詳しい注解を施し、日本古来の精神を表現する最高の古典という位置に引きあげた。いまの高校の日本史教科書では、そう紹介されている。この本もまた、それまで正史とされてきた『日本書紀』を宣長が批判し、代わりに『古事記』を持ち上げたことを、その思想の重要な特徴としてとりあげる。

 ところが著者、先崎彰容は、宣長が『古事記伝』にとりくむ前に著していた和歌論・『源氏物語』論について丹念に論じおえたところで、筆を止める。宣長論としては大胆な選択であるが、後年の『古事記』論や政治論に見える重要な要素は、すでに前の時期の著作や書簡に現れているという理解なのだろう。叙述を前半生に集中したために、国学者の秘められた苦悩や息づかいを、むしろていねいに描きだすことに成功している。

 宣長自身が、木綿仲買商としての家業を継ぐことを断念し、道ならぬ恋に悩むという「亀裂」を内に抱える人物であった事実を、本書は詳しく明らかにする。そうした人間性の繊細な部分を受けとめる感性が、宣長の思想の基礎をなしたのである。儒学(朱子学)の一元的な理論で善悪を裁断し、他者を支配するような発想に対して、それを柔らかに拒絶する「肯定と共感の倫理学」がここに生まれることになった。

 その営みは同時に、海外の「西側」(宣長の場合は中国)からもたらされた基準に依存して自国の優秀性を誇るというのではない、もう一つの「日本の自己像形成」の試みでもあったと先崎は説く。やはり「西側」に属する西洋近代の文化をグローバル・スタンダードとして自明のものと見なし、宣長についてはその「皇国思想」を批判したり、反対に個人の「内面」の尊重を読み取って再評価したりする、戦後の風潮に対する批判はきびしい。その姿勢は、続いて刊行する新著『批評回帰宣言』(ミネルヴァ書房)でも展開される、現代日本の思想をめぐる再検討にまっすぐつながっている。(新潮選書、2090円)

読売新聞
2024年8月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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