「いうたら棄て児ですらあ」…粗末な宿の隣室から聞こえる老婆の声を聞く「井伏鱒二」の傑作

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山椒魚

『山椒魚』

著者
井伏 鱒二 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101034027
発売日
1996/01/01
価格
539円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「いうたら棄て児ですらあ」

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

 今回のテーマは「隣室」です

 ***

 昔の和風旅館は隣りの部屋と襖ひとつで仕切られているところが多かった。

 当然、プライバシーはない。明治の末にアメリカ、フランスに遊学して帰国した永井荷風は、その後、国内旅行は、戦時中に家を空襲で焼かれやむなく明石や岡山に疎開したのを除いてほとんどしたことがない。わずかに京都と軽井沢に行ったことがあるくらい。

 何故、旅行をしなかったのか。日本の旅館はプライバシーがなく、一人が好きな荷風は苦手だったから。

 しかし、他方で、和風旅館で見知らぬ人と話をしたり、話を聞いたりするのが好きな作家もいる。

 井伏鱒二に「へんろう宿」(昭和十五年)という好短篇がある。「へんろう」は四国の遍路のこと。

 ある時、「私」は土佐の海辺の、遍路を泊める粗末な宿に泊る。その夜、隣室から聞えてくる、客と宿の「お婆さん」の会話を記した物語。

 部屋がわずか三つしかないその「薄ぎたない宿」には、「お婆さん」が三人、十二歳と十五歳くらいの女の子が二人と、女ばかりで男がいない。なぜなのか。

 夜、「お婆さん」が隣室の男の客にこんな話をするのが襖越しに聞えてくる。

 この宿では昔から遍路の女性が産んだ赤子を置いてゆくから。男の子は役場に届け女の子は宿に残す。

 いまいる五人は全員「いうたら棄て児ですらあ」。

 部屋が接しているから「私」はこの奇妙な家族のことを村の伝承のように聞くことが出来た。

新潮社 週刊新潮
2024年8月8日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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