納得感を与えようとする姑息さが微塵も感じられない 20世紀最高の小説『百年の孤独』の魅力を芥川賞作家が語る

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百年の孤独

『百年の孤独』

著者
ガブリエル・ガルシア=マルケス [著]/鼓 直 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784102052129
発売日
2024/06/26
価格
1,375円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『百年の孤独』の「語り口」

[レビュアー] 磯崎憲一郎(小説家、東京工業大学教授)

 ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』の文庫化が話題だ。

 1967年にアルゼンチンの出版社から刊行されて以来、日本語を含む46もの言語に翻訳されている世界的ベストセラーだが、ガルシア=マルケスは本作刊行前は鳴かず飛ばずの書き手だったという。なぜ今この作品にこれだけの注目が集まるのか?

 芥川賞作家の磯崎憲一郎氏が『百年の孤独』の魅力を考察した記事を紹介する。

 ***

 今年の4月1日、月曜日の夕方、編集者でもある1人の知人のSNS上の投稿によって、私は『百年の孤独』がついに文庫化されることを知った。そしてその投稿には、次のような文章が書き添えられていた。「『百年の孤独』のことを考えるとき、必ず磯崎憲一郎さんの話を思い出す。朝の通勤電車で読み始めたら止まらなくなってしまい、『社会的責任とは別に、ここで読み止めるということは人生の選択として間違っているように思えて』会社を休み、最後まで読んでしまったという。」過去の対談やインタビューなどで、2度、3度と披露してきた『百年の孤独』との出会いの極めて私的なエピソードを、今回もまた繰り返して記すような、自らを甘やかすような振る舞いは控えたいと思うが、しかしまだ小説を書くことなど志してはいなかった、海外小説を読む習慣さえ身に付けていなかった若者が、どうしてこの作品に限っては抜け出し難いほど激しく惹き付けられたのか? その理由の考察ならば、この誌面を借りて書き進めたとしても多少の意義は認められるだろう。それはつまり、ほんの2カ月前、同じ『新潮』誌上に載せた拙文「『語り口』とは何か?」を書き継ぐことにもなるように思うからである。

 ガルシア=マルケスが祖母トランキリーナの「語り口」を見出したことによって、『百年の孤独』を書き上げた話は有名だが、しかしそこに至るまでの5年間、既に『大佐に手紙は来ない』や『悪い時』を発表していた、職業作家であったガルシア=マルケスなのに、まったく文章を書けなかったという事実にはやはり驚かされる。書きたいことのアイデアは明確に頭の中にあるものの、それを文章化するに当たっての、決定的な何かが足りない、その足らないものとは何なのか? 長い時間を費やして悩み続けた作家は、とうとうある日その答えを掴み取る。それは「わたしの祖母が話をするときの話し方」だった。「なにより大事なところは、話していたときの表情だ。話している間、ぜんぜん表情を変えない」「自分も話を信じること、そしてそれを祖母が話していたのとおなじ表情、すなわち、レンガのような顔で書くことだ」(『パリ・レヴュー・インタヴューII 作家はどうやって小説を書くのか、たっぷり聞いてみよう!』青山南編訳、岩波書店)

 祖母の「語り口」を得たガルシア=マルケスは、それからの18カ月間、椅子から立ち上がることなくタイプライターに向かったまま、『百年の孤独』を書き上げたのだという。ここにはもちろん、この作家一流のフィクションや誇張も混ざっているのだろうが、しかし主題や舞台設定、登場人物の造形、政治的な立ち位置といった他のいかなる要素にも増して、「語り口」こそが『百年の孤独』の成立に不可欠であった事実だけは疑いようもない。そして恐らく、20代だった私がこの作品に強烈に魅了された理由もそこにある。『百年の孤独』の「語り口」には、読者に納得感を与えようとする姑息さは微塵も感じられない。因果律や現実との整合性になどいっさい囚われる必要はない、小説という形式が本来湛えている自由さ、速さ、大胆不敵さ、風通しの良さを、私は人生で初めて、『百年の孤独』を読む経験の中で体感したのだ。

 徹底して、「レンガのような」真顔で書き綴られた無数のエピソードの中でも、読者の視覚的記憶にもっとも鮮やかな印象を残すのは、絶世の美少女、小町娘のレメディオスの昇天だろう。風に煽られたシーツに包まれたまま、空高くへと舞い上がるレメディオスが、地上の人々に手を振って永遠の別れを告げる描写は、聖書の一場面めいて見事なのだが、私はむしろ、このエピソードの収束の仕方に感服してしまった。これほどの驚くべき奇跡、奇談が語られたにも拘わらず、「アウレリャーノを名のる者の残酷な虐殺事件が生じ、驚愕が恐怖に一変するということがなかったら、しばらくはこの話(=小町娘のレメディオスの昇天)で持ちきりだったに違いない」(括弧内は著者付記)というたったの一文で、改行すらせぬまま、あっさりと次なるエピソードが始まってしまう。読者に置いてきぼりを食わせるぐらいの、こうした潔い進行もまた、ガルシア=マルケスが祖母から学んだ「語り口」こその為せる業なのだと思う。

 今回の文庫化によってより多くの、かつての自分のような若い世代に、この作品を手に取って欲しいと願うが、小説家、実作者というよりは、この作品を人生の大事な局面で読み返して幾度となく勇気を授かってきた年長の一読者として、一つだけ注文を付けさせて貰えば、試験問題の答え合わせのような読み方だけは絶対にして欲しくない。私が最初に購入した、『新潮・現代世界の文学』シリーズの一冊として1987年に刊行された白と水色の表紙の新装版には、注解も、ブエンディア一族の家系図も付されていなかった。しかしそれら情報の欠如も私にとってはむしろ僥倖だった。幾人も登場する同名人物の混乱や時系列の錯誤、疑問や矛盾まで受け容れながら、数多の人生と時間を飲み込む奔流に身を委ね、ひたすら文章を読み耽ることこそが、20世紀に書かれた最高の小説である『百年の孤独』に、もっとも相応しい読み方だと信じているからである。

新潮社 新潮
2024年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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