『百年の孤独』に影響を受けた作家が同じ失敗を感じたはず…ガルシア=マルケスを超えられない理由とは? 池澤夏樹と星野智幸が語る【第5回】

対談・鼎談

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百年の孤独

『百年の孤独』

著者
ガブリエル・ガルシア=マルケス [著]/鼓 直 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784102052129
発売日
2024/06/26
価格
1,375円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【池澤夏樹×星野智幸・対談】ガルシア=マルケス化する世界で

[文] 新潮社


ガブリエル・ガルシア=マルケス (c)L.M.Palomares. Ag. Balcells. ALTA

刊行後、途切れることなく読書界を賑わせ続けているガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』だが、刊行以来50年間、読破者がうなされたように語り続けるのはなぜなのか。本作に衝撃を受け、新聞社を辞めてガルシア=マルケスが執筆の本拠地としたメキシコ留学に旅立ってしまったという星野智幸さんと、日本で翻訳される前に英語で本作を読み、以来「追っかけ」のような読者になったという池澤夏樹さんが語り合った。
(全6回の第5回、構成・長瀬海)

 ***

星野 池澤さんはたくさんの世界文学から様々なものを取り込みながら小説を書かれてきたと思います。特にガルシア=マルケスが実作に与えた影響は大きいのでしょうか? 例えば『マシアス・ギリの失脚』はマジックリアリズムで書かれた作品でしたね。

池澤 『マシアス・ギリの失脚』はマジックリアリズム風に書こうと最初に決めたんです。マジカルな話をいっぱい出してもいいし、筋が通らなくてもいい。そう考えて書いたのですが、できあがってから見ると、お行儀が良すぎた。
 なんでかというと、そこにはカトリックがないからなんですよ。あれがないと闇が深くならない。暗くしようと思っても暗くならないし、犯罪が犯罪らしくもならない。だから、どこかお行儀よくまとまってしまった。あれが僕の限界なんだなと思いました。ただ、そういう思いをしたのは僕だけじゃなかったと思う。世界中で多くの小説家が同じ失敗を感じたはずです。

星野 もしかするとそれは日本の社会と文学の限界なのかもしれませんね。


星野智幸さんと池澤夏樹さん(撮影:新潮社写真部)

池澤 それもあるかもしれません。あのとき思ったんですが、やっぱり『百年の孤独』で一番大事なのはマコンドというトポスなんですよね。いや、『百年の孤独』だけじゃなくて、20世紀の文学で面白いものには必ずトポスが描かれている。ジョイスにおけるダブリン、フォークナーにおけるヨクナパトーファ。どの作品でもトポスの方が人間よりも大きなものとして捉えられているんです。それがなければマジックが始まらない。だから僕は『マシアス・ギリの失脚』で舞台を日本の内地に設定したんじゃダメだと思って、太平洋の架空の島を作ったわけです。島というのは自分で作れるんですよ。歴史から何から捏造できる。

星野 カトリックがないと暗くならないのは池澤さんを縛っているものがないからですか?

池澤 そうですね。ラテンアメリカはどこもカトリックのトーンが濃いでしょう。罪と罰の問題が大きいのはそのせいです。そのくせラテンの人たちはカトリックに反発して、民衆宗教に仕立て直してしまったりもする。例えばメキシコのチアパスのチャムラという村。ここではカトリックの教会に正式な司祭がいないんです。自主管理でやっているから中身がどんどんブードゥーに近くなる。土俗宗教になってしまったカトリックを僕はこの眼で見ました。

星野 ラテンアメリカは確かに全体がカトリックなんだけど、それぞれの土地で地域化しているので慣習が違いますよね。だから同じものには思えない。それでも何か共通するものがあるんだと探り、その世界観の作り直しをしたのがラテンアメリカ文学ブームだったんじゃないでしょうか。地域化・部族化されたものをそれぞれの語りのなかで表現した文学がたくさん書かれたし、読まれた。そのなかで、ラテンアメリカ全体で共有している大きな何かを見つけようとする動きも起こったんだと思います。

池澤 それぞれの国家としての自覚と同時に連帯の意識も生まれたということですね。

星野 そのような意識がこの『百年の孤独』を生んだ1つの土壌だったのかなと思います。そうじゃなければ単なる地域の言葉で書かれた、ローカルな文学で終わったかもしれません。あのときの動きがガルシア=マルケスの語りを作り、ラテンアメリカ文学をここまで大きくさせたんでしょうね。
 僕も最初の頃はガルシア=マルケスの文体を意識して小説を書いていました。だけど、今お話のあったイサベル・アジェンデだったり、中国の鄭義(チャンイー)や莫言(モーイエン)だったり、世界中で『百年の孤独』を自分の土地でやってみようと思った作家が、80年代から90年代にかけて大作を次々と書き上げていたわけじゃないですか。そういうのを知ってしまうと無邪気に真似なんかできないなと思ったのが正直なところでした。

池澤 そうなんですよね。何を今更、って思ってしまうんです。

星野 ええ。そのことを理解しながらも、でも模倣からじゃないと書き始められないという気持ちがせめぎあうのを感じながら、デビュー作の『最後の吐息』を書いたりしていました。

池澤 僕も星野さんの小説を読んで確かにラテンアメリカ文学と同じものを感じるんだけど、それはマジックを使っているからというよりも、話が繁茂していくからなのではないでしょうか。物語が生まれては広がり、もぞもぞとどこかへ動いていく。あの化け物的な感じ。ラテンの世界って密林が多いでしょう。そこでは必ず植物が繁茂してるんですよ。放っておくと雑草だらけになるし、蔦が絡まるし、木が伸びて実が落ちて腐敗する。ご本人が気づかれているかはわかりませんが、僕は星野さんの小説のなかでの話の広がり方は繁茂という言葉に近いと思う。

星野 ありがとうございます。おっしゃってくださったことは自分でもよくわかります。僕が植物を好きな理由はその繁茂性にありますし。

池澤 坐ってじっくり見る前に先の方へ歩いていってしまう。繁茂性というのはそういう性質のことですよね。

星野 そうだと思います。隙間があれば入っていっちゃうし。だから自分でもそういった植生をコントロールすることは無理だろうなってわかっているんです。むしろそうなることの心地よさに身を委ねながら書いていたりします。そもそも言葉自体にそういう性質があるんじゃないでしょうか。日本語では言葉は言の葉と書きますが、言葉が言葉を呼び寄せて反応し合うというのはどんな文学にも必ずあることです。僕自身はガルシア=マルケスを読んだときにそれでいいんだと心を解除することができたような気がします。

池澤 刈り込まなくていい。伸びるだけ伸ばしてみる。そうするとそいつら同士が競争して、枝葉がぐんぐん広がっておかしなことになっていくから、それをただ見ていればいいってことですね。それがラテンアメリカ文学の、そして星野さんにとっての繁茂性なんでしょう。

星野 ただ、一方では刈り込もうとする自分もいたりはします。

池澤 それもわかります。両方なんですよね。何も考えないで始めてみたいなと思うんだけど、どこかでカチッと考えたい自分もいる。先を考えずに書いていると不安なんですよ。どうしようかなと思う。そんなときに一人の登場人物がぼそっと何か言っただけでそこから先が見えてくるということもありますね。それが連続的にできればいいんだろうけど、なかなかうまくはいかない。

星野 その世界を生きるには体力が必要なんですよね。

池澤 そう、体力がなくちゃ密林を生きられない。

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最終回の第6回では、マジックリアリズムの世界観が現実と拮抗していることに着目し、『百年の孤独』を考察した対談をお伝えする。全6回の一覧はこちら

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池澤夏樹
作家。1945年北海道生まれ。埼玉大学理工学部物理学科中退。東京、ギリシャ、沖縄、フランス、札幌を経て、2024年5月現在安曇野在住。主著『スティル・ライフ』『母なる自然のおっぱい』『マシアス・ギリの失脚』『楽しい終末』『静かな大地』『花を運ぶ妹』『砂浜に坐り込んだ船』『ワカタケル』など。「池澤夏樹個人編集 世界文学全集」「同 日本文学全集」を編纂。

星野智幸
作家。1965年ロサンゼルス生まれ。早大卒業後、新聞社勤務を経てメキシコに留学。1997年『最後の吐息』で文藝賞受賞。主著『目覚めよと人魚は歌う』『ファンタジスタ』『俺俺』『夜は終わらない』『焔』など。

新潮社 新潮
2024年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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