『谷から来た女』
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その女の強靭で冷やかな眼差しが際立たせる、六編の人生の断片
[レビュアー] 小池真理子(作家)
桜木紫乃は北海道に生まれ、現在も道内で暮らしている。この作家にとっての「アイヌ」は、存在はもちろん、そこにまつわる様々な問題のすべてが、日常の風景のひとこまでもあったのだろう。
私の母方の一族も、代々、北海道の人間である。子どものころ、「あなたにはアイヌの血が入ってるのかもしれないね」と言われることがよくあった。遥か遠くまで先祖を辿れば、ひょっとして、などと今も思う。
『谷から来た女』は、アイヌの出自をもつミワという女性を中心にして、六つの短編で構成された連作短編集である。ミワは才能に恵まれた、多忙なアイヌ紋様デザイナー。「日本人離れした肉感的な体」をもち、謎めいた雰囲気をたたえ、熱を上げた男たちと深い関係になることもあるが、決して色恋には溺れない。創作に命をかけ、感情を抑制し、執拗に自身の内側を見つめながら生きている。
タイトルにもある「谷」というのは、かつてアイヌの人たちが暮らしていた里を意味する。身体に同じ血が流れている人々が、支え合いながら生活を営む集落。穏やかでやさしい時間が流れる場所だったはずなのに、里はダム建設のため、水底に沈められた。
アイヌ民族の先住権を争うダム裁判は現実にあったことだが、作中、裁判の詳細や先住民たちの苦悩の数々、少数民族者が受けてきた差別やいじめに関する具体的な描写はほとんど見られない。作者の批評眼も物語の奥深くに隠されている。描かれているのはあくまでも、その「谷」に向かう女と「谷」から来た女、そして、彼女たちと深く浅くかかわりをもった人々の心模様なのだ。
文体は平明で、余計なものが削ぎ落とされている。過剰な説明や心理描写に偏らない。この作家特有の割り切りのよい文章の魅力が充分に活かされ、登場人物たちの猥雑でもの悲しい、それぞれの人生の断片を際立たせている。
作者が二十年ほど前から温め、いつか書きたいと願っていたテーマだったという。密かに熟成発酵させながらも書き出すきっかけがつかめずにいたのが、ミワのモデルとしか思えない女性と知り合ったことで、作品世界が完成し、執筆の運びになったと聞いた。
ミワの強靱さと冷やかな知性、そして絶対的な孤独。彼女に惹かれ、縁をつないだ市井の人々の中にもまた、よく似た孤独があることをこの小説は訴えかけてくる。