『さよなら凱旋門』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
『さよなら凱旋門』蜂須賀敬明著
[レビュアー] 遠藤秀紀(解剖学者・東京大教授)
蹄鉄に転生 少年見守る
タイムスリップと転生の幻想物語である。凱旋(がいせん)門賞のゴール間際、落雷を受けた日本人騎手が時空を跳ねてたどり着いた先は、百年前の英国の競走馬牧場。しかも、身体は「蹄鉄(ていてつ)」に生まれ変わっている。
「蹄鉄」が舞い降りた先には、厩務(きゅうむ)員の男の子、アリーがいた。「蹄鉄」の声はアリーにしか聞こえない。その後の競馬の歩みを知る「蹄鉄」は、アリーと愛すべき厩舎の人々、そして競馬界の朋友(ほうゆう)やライバルたちを静かに見守る。
主役は実は「蹄鉄」ではなく、アリーの方だ。彼は英国の伯爵家主人の庶子で、アラブ系の血を引く。馬小屋で生を受け、白人から暴力を受けることは日常茶飯事。ついには、買い付けられた馬とともに、アメリカの牧場へ逃げる。そんなアリーの心の支えとして登場するのが、黒人女性ながら騎手ライセンスを勝ち取ったルビー。二人は被差別の日常を懸命に生きる。
「蹄鉄」となった騎手の大好物にみたらし団子が登場する。それが筋書きに絡み、笑わせてくれる。悲喜こもごも、中学生にも楽しめるファンタジーだ。一方で筆は、二十世紀前半の米欧の人種差別社会を丹念に描き、禁酒法、希土戦争、人身売買、世界恐慌を要所にちりばめ、アリーの成長に寄り添う。
閉鎖した職人世界を描く際に、虚構の舞台と登場人物を異国のものに設定したのは書き手の巧みな手法だが、この「蹄鉄」は欧米競馬界の雰囲気を日本人読者に伝えるうえで、絶妙な黒子の立ち位置を与えられている。つまりはファンタジーではあるものの、空想部分は人種問題の重苦しさを和らげるための装飾であって、作品の本質は、少年の真っすぐな成長を描くリアリズムにあると読んだ。
海の男、山の男、動物好きなど、「○○に悪い奴(やつ)はいない」という筋書きの、ホースマン編だろう。社会から虐げられる善人たちの、馬への温かい思いが、心地よい読み味を運んできた。(文芸春秋、2200円)