『しをかくうま』九段理江著

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しをかくうま

『しをかくうま』

著者
九段 理江 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163918167
発売日
2024/03/12
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『しをかくうま』九段理江著

[レビュアー] 池澤春菜(声優・作家・書評家)

人と馬の壮大な物語

 この本を知ってから、手元に届くまでに少し時間があった。わたしはその間、ずっとタイトルのことを考えていた。

 詩を書く馬?

 死を欠く馬?

 わたしは声優でもあるので、この二つには明確にアクセントの違いがあることがわかっている。けれど文字で見た時、その差は消える。第一七〇回芥川賞を受賞した「東京都同情塔」でも、作者は耳と脳に残る語感のフックを仕込んでいた。読み手は迷路のような言葉の意味と響きの中を彷徨(さまよ)い、さまざまに幻視する。

 人と馬の長い長い物語。現代の主人公となるのは、競馬実況アナウンサー。愛する馬「シヲカクウマ」に少しでも近づくため、彼は謎の人物の元を訪ねる。もう一つのパートは、ヒとビ、それからマと呼ばれる存在の交流と歩みが描かれる。二つの物語は馬という存在を通して、やがて現在に繋(つな)がる。

 人が最初に馬を知り、その背中に乗り、移動の神髄を知った瞬間から、今、現在まで。粗筋にしてしまうと、この物語のディテールはそぎ落とされてしまう。けれど、この作者の書くものは、一つ一つの言葉、そのディテールにこそ魅力があるのだと思う。

 この作品で第四五回野間文芸新人賞を受賞した際、作者はこのように語っている。

 「わたしはどのような言葉も聞き逃したくはなかった。それがテレビアナウンサーの言葉であれ、詩人の言葉であれ、馬の言葉であれ、言葉を忘れようとする人間の言葉であれ、今この瞬間に思いつく限りの言葉を試しながら、あらゆる可能性に対して返事をしたいと思った」

 奔放でいて、隅々まで抑制の効いた語り。言葉と意味に対する踏み込みと飛躍。言語感覚というよりは運動感覚に近い、プリミティブさ。どこまで連れて行かれるのか。馬で疾駆するが如(ごと)きドライブ感と酩(めい)酊(てい)感は得がたい読書体験。(文芸春秋、1650円)

読売新聞
2024年7月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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