胎内音から、大自然の静寂まで――音が人の脳に与える絶大な影響とは?

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音と脳――あなたの身体・思考・感情を動かす聴覚

『音と脳――あなたの身体・思考・感情を動かす聴覚』

著者
ニーナ・クラウス [著]/伊藤 陽子 [訳]/柏野牧夫 [解説]
出版社
紀伊國屋書店
ジャンル
自然科学/自然科学総記
ISBN
9784314012034
発売日
2024/03/01
価格
2,970円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

胎内音から静寂までが私の脳を作った

[レビュアー] 最相葉月(ノンフィクション・ライター)

まだ母親の胎内にいるうちから、音は脳を作り上げるために重要な役割を果たしているらしい――世界的聴覚神経科学者が、音楽・言語・スポーツ・加齢など幅広いトピックで聴覚の持つ力を明らかにし、刊行直後から静かな反響を呼んでいる『音と脳』に、ノンフィクションライターの最相葉月さんが寄せた書評を紹介する。

 ***

 聴覚神経科学の第一線で先駆的な研究を行ってきた著者による、30年以上にわたる研究の集大成である。米ノースウエスタン大教授のニーナ・クラウスという名前は知らなくとも、脳の神経可塑性、すなわち成人の神経系が学習によって再組織されることの可能性を示した研究者の一人と聞けば、心当たりのある人は多いのではないか。

 個人的には、脳出血の後遺症を負った母の介護で途方に暮れていた頃、脳の可塑性(かそせい)が証明されたことを知ってどれほど励まされたか。損傷部が元に戻ることはなかったが、いっときは意識不明だった母がある程度の会話ができるまでに回復したのは、欠落を補完すべく神経細胞が再組織化されたからだろう。本書の原題にある「サウンドマインド」とは、音と脳の関わりと、それが私たちに及ぼす影響を意味する言葉だが、母がお気に入りの音楽に回復を助けられたことは確かだったと実感している。

 著者はピアニストの母をもち、親族がイタリアにいるためバイリンガルとして育った。「話し言葉と音楽の生物学的基礎」をテーマとするのは自然な流れだったろう。音に囲まれて暮らすことが脳をどう変えるのか。思考や情緒、感覚の統合にどんな影響を与えるのか。音楽家やバイリンガルの調査から、言語障害や発達障害、脳震盪、加齢の影響まで、著者が設立した研究室「ブレインボルツ」で行われた実験や関連研究を参照しつつ解き明かしていく。

 著者の手法は、聴覚の処理が集結し、多くの領域から届いた脳の信号が出会うとされる聴覚中脳の電気信号「周波数対応反応(FFR)」を測定する方法だ。音楽の経験がある人はより迅速かつ忠実に周波数に追従し、騒音下でも音声処理能力が高いこと。注意力や言語記憶、作業記憶にまさることなどを明らかにした。

 言語障害の研究では、意識しなくても音のパターンに応じて脳が反応する「ミスマッチ陰性電位(MMN)」という脳波に着目した。言語障害をもつ子どもの脳は、典型的な子どもなら聞き分けられるわずかな差異のある話し言葉の音への応答が弱い。この研究は障害の早期診断とサウンドマインドを育てる教育プログラムの設計に大きな示唆を与えた。

 本書にたびたび登場するテーマは、貧困だ。騒がしい生活環境や教育資源の不足が子どもの聴覚脳にどんな悪影響をもたらすか。低所得地域に住む子どもはそうではない子どもに比べると、話し言葉のカギとなる音要素への反応が弱かった。神経ノイズという脳内で発生する雑音が過剰であることが、話し言葉の処理をむずかしくしているようだった。そんな子どもたちでも音楽を注意深く聴き、演奏の指導を受けることで読字スキルが維持でき、学業成績の格差を埋められることも明らかとなり、早期の教育支援の必要性を提唱している。

 興味深いのは、聴覚訓練士のキャリアをもつ研究員を中心に実施した「加齢脳プロジェクト」だ。聴力の衰えが認知症を招きやすいこと、トレーニングによって記憶力や騒音下の聞き取りや情報の処理速度が改善すること、音楽の練習を行っていれば中高年になってもすべての音要素の処理がほとんど衰えなかったことなど、読むほどに音楽ってどれだけ万能なのかとため息が出てくる。

 さらに無視できないのが、運動である。アスリートを対象とする研究では、アスリートが一般人よりも神経ノイズが低く、そのため周囲の音を把握しやすいことを明らかにした。競技中の騒がしい環境でも指示や合図を理解する必要があることから、聴覚系が適応を高めたのではないかとも考えられている。

 著者の研究には、その人がこれまで関わってきた音が今日の脳を作り、明日の自分や社会の未来を決めるのだという強い信念が感じられる。ブレインボルツには聴覚障害をもつ人や高齢者が集まり、率先して研究に参加しているという。FFRの測定が体を傷つけない非侵襲的な方法であるというだけでなく、彼らをたんに研究対象とみなさず、彼らが抱える困難を社会的な課題として捉え直し、解決へ導こうとする姿勢があるからにほかならない。

 解説を寄せた認知神経科学者・柏野牧夫によると、FFR測定法について近年明らかになった事実から、著者の初期の研究には再解釈が必要な面もあるようだ。だが研究は常に手法の進歩に支えられ、新たな研究が先行研究を塗り替えることは科学の必然だ。それをふまえても、著者が聴覚研究に与えた影響と功績は大きいという。母の胎内のくぐもった音から街のざわめき、静寂までが私自身だ。これから自分がどんな音を聞くのだろうと思うとワクワクした。

 最後に、印象深かったエピソードを一つ。コロナの自粛期間中、人間が出す音が激減したことで、野鳥が技術的にも筋肉運動的にもむずかしい歌をさえずるようになったそうだ。へえと驚く一方、でも、それって人がいつもより鳥の声に耳を澄ますようになったってことじゃないのかなあと思ったりしている。

紀伊國屋書店 scripta
no.72 summer 2024 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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