『SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望』河原梓水著

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SMの思想史

『SMの思想史』

著者
河原 梓水 [著]
出版社
青弓社
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784787210586
発売日
2024/05/14
価格
3,300円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望』河原梓水著

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

近代性と両立 主張に限界

 日本は驚くべきSM先進国だった。皮肉やからかいではなく、本書を読んでつくづくそう思う。「サディズム」「マゾヒズム」の言葉は、二十世紀初頭から西洋の精神医学の用語として輸入された。そのため少なくともアンダーグラウンドの世界ではそうした性的志向について語ることが、欧米でも昔から盛んだったかのように思っていたが、違うのである。一種の精神疾患と見なす偏見に抗して、SM愛好者が自己主張と表現活動を活発に始めたのは、北米ではようやく一九七〇年代からだという。

 これに対して日本では一九五〇年代から、本書が「戦後風俗雑誌」と呼ぶ雑誌――当時の呼び名では「エロ・グロ雑誌」「変態雑誌」――において、サディスト・マゾヒストが筆名もしくは匿名で、自己の性実践を「告白」する記事が載り、読者の人気を集めていた。その代表である『奇(き)譚(たん)クラブ』の発行部数は最盛期で五万部から八万部と推定されているから、関心をもつ人はかなり多かった。

 「告白」を読み、書くという姿勢は、同じころの社会運動・教育運動において、個人の生活のありのままの記録が推奨されていたことと共通している。しかも戦後における夫婦像の理想ともからみあっていた。「封建的」な家族関係から解放され、主体的に結婚相手を選んだ男女が、日常生活では対等な伴侶としておたがいを尊重し、夜は夫婦だけの寝室で「変態性欲」の楽しみを実践する。そうした「近代化されたサディズム」を提唱した作家の正体が、女性史の研究で知られる在野史家だったという謎解きもおもしろい。

 しかし、そうした「近代性」とSMの欲望とが両立しあうという主張には、どこか無理がある。有名な長(ちょう)篇(へん)小説『家畜人ヤプー』と、マゾヒスト作家、古川裕子の作品の両者が、その限界をつきつけ、抑圧されたナショナリズムの願望や、「正しくない欲望」に基づく愛の姿を示してゆく。戦後に唱えられた理性的な主体の理想は、人間性の薄い表面しかとらえていない。すでに五〇年代に、深い次元でそれが指摘されていたのである。(青弓社、3300円)

読売新聞
2024年6月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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