【衝撃の実話】終戦後、北朝鮮で難民となった6万人の日本人を脱出させたゴリゴリの反政府主義者の人生を賭けた生き方とは?

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奪還

『奪還』

著者
城内 康伸 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784103137337
発売日
2024/06/17
価格
2,090円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【衝撃の実話】終戦後、北朝鮮で難民となった6万人の日本人を脱出させたゴリゴリの反政府主義者の人生を賭けた生き方とは?

[レビュアー] 西岡研介(ノンフィクション・ライター)


「引き揚げの神様」と言われた松村義士男(『北鮮の日本人苦難記』時事通信社刊より)

 驚愕の実話を発掘――太平洋戦争の敗戦後、朝鮮半島北部に残され、難民となった邦人6万人を集団脱出させた人物を取り上げた一冊『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸・著/新潮社)が刊行された。

 飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、多くの日本人を母国へ帰還させたとで、「引き揚げの神様」と言われた松村義士男の足跡を描いた本作の読みどころとは?

「噂の眞相」編集部に在籍し、「週刊文春」「週刊現代」記者を経てノンフィクションライターとなった西岡研介さんが綴った書評を紹介する。

 ***

 昭和の時代にはまだ、こんな益荒男(ますらお)がいたのだな――。平成、令和と時を重ねるにつれ、政治家や官僚、経済人から犯罪者に至るまで、日本人全体が、どんどん小粒になっていくことに鬱々とする昨今、そう思わせてくれる作品だ。

 松村義士男(まつむら・ぎしお)。といっても、今の日本で彼の名前を知る人はごく僅かだろう。かくいう私も本書を読むまで、その名はもちろん、存在すら知らなかった。

 1911(明治44)年、熊本県本庄村(現在の熊本市中央区本荘町)に生まれた松村は、故郷の小学校を卒業後、父親の仕事の関係から朝鮮半島、現在の北朝鮮・元山(ウォンサン)に移住。地元の中学校に進んだが、左翼運動に傾倒し、退学となった。

 退学後は工場労働者として、労組の再建を画策したことから、治安維持法違反の容疑で逮捕される。その後、帰国して、共産党のオルガナイザーとなった松村は、党再建に向け、オルグ活動を活発化させた。当然のことながら、特高警察から目をつけられ、再度、治安維持法違反に問われて逮捕――とまぁ、筋金入りの共産主義活動家、当時の呼び方に倣えば、「アカ」である。

 釈放後、松村は再び朝鮮半島に渡り、北朝鮮で終戦を迎えることになるのだが、そんなゴリゴリの反政府主義者だった彼が、だ。戦後、北朝鮮に取り残され、飢えや病気で死んでいく同胞の姿を目の当たりにして、義憤に駆られ、命懸けの「脱出作戦」に挑むのだから面白い。

 1945年8月15日、日本の敗戦によって朝鮮半島が植民地支配から解放されると同時に、それまで彼の地に住んでいた在留邦人約70万人は事実上の「難民」と化した。

 このうち北緯38度線以北、すなわち北朝鮮に住んでいたのは約25万人、以南の南朝鮮は約45万人。南朝鮮に進駐した米軍は、在留邦人の日本への送還を徹底させ、45万人の引き揚げ作業は、終戦翌年の46年春までにほぼ完了したという。その一方で、北朝鮮に侵攻したソ連軍は38度線を封鎖し、北朝鮮にいた25万人の邦人は彼の地に閉じ込められる形となった。

 さらに、ソ連や旧満州と国境を接する北朝鮮北部の咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)は、ソ連軍による侵攻で直接、戦火に晒された。終戦前には約7万4000人を数えた咸鏡北道の邦人のうち約6万人は、土地や家を捨て、その多くが着の身着のまま南に向かって避難した。

 後に「避難民」と呼ばれることになる邦人は、咸鏡北道の南に位置する咸鏡南道(ハムギョンナムド)の中核都市、咸興(ハムン)などに殺到した。が、咸鏡北道の山間部を、1カ月以上も歩き続けるという逃避行の道中で、力尽き、命を失った高齢者や子供も少なくなかったという。

 一方、やっとの思いで咸鏡南道にたどり着いた避難民を待っていたのは、深刻な住居と食糧の不足だった。終戦前、一般邦人の数が約1万2000人だった咸興には、45年10月時点で、その倍以上、2万5000人もの避難民が流入し、街は、生活困窮者で溢れかえった。

 さらに栄養失調と、劣悪な環境での集団生活で、発疹チフスなどの感染症が大流行し、咸興では同年8月から翌年春にかけて、約6300人が死亡した。まさに6人に1人が命を落とした計算となり、北朝鮮で最悪の惨状を呈したのだ。

 この咸鏡北道、咸鏡南道に取り残された同胞の惨状を目の当たりにしたのが、前出の松村だった。「このままでは日本人は死に絶えてしまう」と義侠心を燃やした松村は、一人でも多くの在留邦人を日本本土に引き揚げさせるため、南朝鮮への、集団での「脱出計画」を立案し、実行に移すのだ。

 それまでの活動家人生で培った、北朝鮮の共産党人脈を駆使するだけでなく、終戦前には、互いに「敵」の間柄だった旧朝鮮総督府の元警察官僚をも味方につけ、その協力を取り付ける。さらには、組合活動で鍛えた交渉力で、ソ連軍とも渡り合い、持ち前の胆力で、白昼堂々、列車を使った在留邦人の大量輸送だけでなく、漁船をチャーターした海路での脱出も敢行する。

 最終的に松村が直接、間接的にかかわった脱出作戦で、北朝鮮を脱出し、日本に引き揚げることができた在留邦人は6万人ともいわれ、彼はいつしか、「引き揚げの神様」と呼ばれるようになった。

 本作品が出色なのは、歴史に埋もれていた「松村義士男」という“アウトサイダー・ヒーロー”を発掘したことはもちろんだが、彼の足跡を追うことによって、終戦直後の北朝鮮における「日本人難民史」を描いているところにある。

 無論、これまでにも、戦後の北朝鮮の在留邦人が置かれた状況や、北朝鮮からの引き揚げ者の実態については、本書内で引用される公文書や、巻末に参考文献としてあげられる多くの書籍に記録されている。だが、著者は、それらの膨大な資料を隈なく渉猟した上で、体系的に整理。さらには、実際に、松村の脱出作戦によって北朝鮮から逃れることができた人たち、引き揚げ者を訪ね歩き、それらの証言で肉付けを行なっていく。この地道な作業の積み重ねによって、「終戦直後の北朝鮮残留日本人が、いかに過酷な生活を余儀なくされていたか」が立体的に浮かび上がり、リアリティーをもって迫ってくるのだ。

 そして、1946年10月、北朝鮮で、日本人の正式な引き揚げ事業の開始が決定したことを受け、松村は自分の役目を終えたと判断。約9カ月に及んだ「集団脱出」の工作を打ち切り、同年12月、他の在留邦人と共に引き揚げ船に乗り、彼の地をあとにした。

 だが、帰国後の松村は、不遇を託ったという。原因の一つは、彼が終戦翌年、脱出工作のため資産家から借り入れた多額の資金だった。つまり彼は、自ら借金まで背負って、同胞を帰国させようとしていたのである。松村は帰国後、その返済に苦しみ、遂には家族を置き去りにして失踪。病に倒れ、自らの輝かしい功績を世間に誇ることなくこの世を去った。

 本書に登場する多くの証言者の中で、おそらく著者が最も会いたかったであろう、松村の長女は、著者のインタビューの申し込みを、頑ななまでに拒み続ける。著者と長女との往復書簡からは「引き揚げの神様」が、その家族にとっては、かならずしも「いい父親」でなかったことを窺わせ、そのエピソードがまた、人間臭く、味わい深い。

新潮社
2024年7月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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