実は福澤諭吉も言っていた!「東大の学費を値上げすべき」と慶應義塾長が提言した背景にある“伝統”とは

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「反・東大」の思想史

『「反・東大」の思想史』

著者
尾原宏之 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784106039096
発売日
2024/05/22
価格
1,980円(税込)

河野有理×森本あんり「日本の『反知性主義』を問い直す」尾原宏之『「反・東大」の思想史』刊行記念 前編

[レビュアー] 新潮社

■なぜ東大に税金を使うのか?

河野:なぜ莫大な国費を投入してまで東大の学費を安く抑える必要があるのかと言えば、それは東大が「国家枢要の人材」を養成しているからである――明言するかどうかはともかく、こういうロジックが少なくともある時期までは広く社会に共有されていたように思います。

森本:つまり社会全体の利益になる人材を育てるためだから、税金を使うのも正当性があるという考え方ですね。実は大学教育の総コストを見ると、公金と家計の負担割合は日本もアメリカもそんなに変わらないのです。違うのは学生数の割合で、私立大学に通うのはアメリカでは3割弱なのに、日本は8割です。バランスから言えば、今の東大への国費投入はさすがに大きすぎるのではないかと思います。

河野:戦後の一時期までは、たとえば法学部であれば相当数の東大卒業生が役所に就職して、決して高いとはいえない給料で、お国のために頑張って働いてくれているというのは実感できるストーリーだっただろうと思います。したがって、彼らの学費を税金で賄うというのも分かりやすい話でした。

しかし近年は、役所に就職する東大卒業生が減る一方で、かわりに外資系の金融機関やコンサルティング会社に就職してバリバリ高給を稼ぐタイプが目立ってくる。あるいは、「東大王」などのテレビ番組やYouTubeなどで人気者になるタイプも出てきました。

もちろん、職業選択は完全に自由なのですからそのこと自体は決して非難されるいわれはありません。ただ、やっぱり納税者のロジックからすると、なんで彼ら彼女らのためにそこまで税金を使わないといけないんだという疑問が出てくるのは避けられない。その意味で、昨今の東大ブームにおける「ユニークな東大出身者」の取り上げ方は、何かをきっかけに世間の空気を一気に「反・東大」に反転させかねない、やや危ういものを感じますね。

森本:そんな空気を察したのか、東大も学費を10万円ぐらい値上げすることにしたみたいですね。私学の立場からすれば、もう少し値上げしても良いんじゃないかと思いますが、しかし世間の批判が高まると、それをすぐさま取り入れて自己変革を遂げていくというのは、まさに『反・東大』に描かれた東大の〈生き残り戦略〉でもありますね。

■ロースクールを合併して「一大法律学校」を作る?


東京女子大学学長の森本あんりさん

河野:もう一つ、『反・東大』で私が身につまされた話は、第3章の「私立法律学校の試験制度改正運動」です。これは、現在のいわゆるロースクール(法曹を養成する法科大学院)の問題にもつながる話で、私はいま法政大学の法学部に勤務していることもあり、とても興味深く読みました。

森本:この本を読んで初めて知ったのですが、かつて帝大法科卒業生には無試験で判検事・弁護士になれるという「特権」が与えられていたんですね。

河野:そうです。そして、それに反発した私立法律学校の学生たちが、そのような制度を改正しようと運動を起こすのです。その流れの中で、1897(明治30)年に、「貧弱で教育程度の低い」私立法律学校6校(現在の中央、明治、早稲田、法政、日大、専修)を合併して、帝大法科に匹敵する「一大法律学校」を作ろうというアイディアが出されました。結局うまく行かなかったのですが、現在の各大学のロースクールの苦境を見ていると、再びこのような再編・統合の話が出てきてもおかしくはないような気がしました。

森本:たしかにありうる話ですね。そういう動きに対する東大側の焦りや対応も面白かった。

■「おカネ」は反知性主義の軸になるのか?

河野:このように、『反・東大』に出てくる大学ネタを話していると、面白くてキリがないのですが、せっかく森本さんをお呼びしたので、もう少し大きな視点から本書を論じてみたいと思います。

この本には、単なる偏差値教育批判などを超えた、もっと本質的な思想史的な意義があるというのが私の感想です。最初に申し上げた通り、私はこの本を「日本における反知性主義」として読むべきだと考えていますが、森本さんはどう思われますか?

森本:反知性主義と言うからには、単に上下の逆転を狙う「下剋上」の思想ではなく、知的権威に対抗しうる「別の軸」を提示することが必要になると思います。アメリカの場合で言えば、キリスト教の信仰復興運動(リバイバリズム)という宗教的な軸がありました。日本でそのような軸が出せるかどうかですね。

河野:森本さんのご著書『反知性主義』で興味深かったのは、アメリカでは知性主義に対抗する連合として信仰とビジネスというある意味正反対のものが結びついていくんだというお話でした。『反・東大』で描かれた、慶應義塾や一橋大学が実業・ビジネスという軸で官僚養成の東大に挑戦していこうとする構図も、その意味でのビジネス的反知性主義、実務家的反知性主義の系譜とは見ることはできませんか。

とくに福澤は「官尊民卑」を打破する力として、カネの力に強く期待しています。大富豪になれば、東大出身の高級官僚にも対抗できると考えた。それでしきりに「カネ儲けのすすめ」を説き、世間からは「拝金宗」などと批判されるほどでした。ベンジャミン・フランクリンと福澤の類似性というのは時折語られるテーマですが、福澤はアメリカの反知性主義の影響をかなり直接的に受けているのかもしれません。

森本:たしかに19世紀アメリカでは、富の力が知的権力に対抗する「別の軸」になっていました。鉄鋼王カーネギー、鉄道で財を成したスタンフォードやヴァンダービルトらは、大学教育を受けずに実業の世界で大成功し、アメリカ社会の平等や民主主義を体現する存在となりました。

しかし、そんな彼らも、やがて「自分たちの時代は教育がなくても成功できたが、新しい時代には教育が必要である」と痛感するようになり、その巨万の富を使ってそれぞれの名を冠した大学を設立するようになります。やはりお金だけでは、知性主義に対抗する「別軸」としては、少し弱い。

河野:なるほど、そう考えると、いまや東大生も外資系に就職したり起業したりというのは、反知性主義を支える「別の軸」だった「カネ儲け」の世界にも、新たに東大が進出してきたということなのかもしれませんね。これもやはり、尾原さんが指摘するような「敵」や「外部」を取り込んで自らを変えていく東大の強さという話につながります。これからの「反・東大」の軸をどこに立てるべきか、あらためて尾原さんの本を読んで考えなければなりませんね。

***

河野有理(こうの・ゆうり)
1979年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。日本政治思想史専攻。首都大学東京(当時)法学部教授を経て、現在、法政大学法学部教授。主な著書に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会、2011年)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会、2013年)、『近代日本政治思想史』(編、ナカニシヤ出版、2014年)、『偽史の政治学』(白水社、2016年)、『日本の夜の公共圏:スナック研究序説』(共著、白水社、2017年)がある。

森本あんり(もりもと・あんり)
1956年、神奈川県生まれ。東京女子大学学長。国際基督教大学(ICU)人文科学科卒。東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。国際基督教大学人文科学科教授を経て、現職。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体』(創文社)、『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)、『異端の時代』(岩波新書)、『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)、『不寛容論;アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)など。

新潮社 考える人
2024年6月13日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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