今田耕司とピリついていた番組で気づく…鈴木おさむが語る、とにかく明るい中山秀征の凄さ

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いばらない生き方―テレビタレントの仕事術―

『いばらない生き方―テレビタレントの仕事術―』

著者
中山秀征 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784103556411
発売日
2024/05/22
価格
1,650円(税込)

中山秀征はなぜずっと気になるのか?

[レビュアー] 鈴木おさむ(放送作家)


鈴木おさむさん

 僕が初めて「中山秀征」をテレビで見たのは、1985年10月から日本テレビで放送されたドラマ「ハーフポテトな俺たち」だった。

 水曜日の夜9時から放送されていたこのドラマ、僕は4歳年上の姉が見ていたので見始めた。当時13歳の僕は、高校生が主人公のこのドラマを、回を増すごとに食い入るように見ていた。そして、中山秀征演じる主人公に憧れていた。

 僕の中で初めて見た中山秀征は「俳優」であり、憧れの存在であった。が、それから、中山秀征をバラエティー番組でちょくちょく見るようになった。

 テンション高く画面の中に出てきて、明るく振る舞うその姿は、僕にとっては違和感だった。ハーフポテトなあの人じゃない……と思った。

 そして、「ABブラザーズ」というコンビ名を名乗っている「お笑い」だということに気づく。

 時はお笑い第三世代が出始めているころ。「ウッチャンナンチャン」「ダウンタウン」「B21スペシャル」「ダチョウ倶楽部」のコントや漫才を見ては腹を抱えて笑っていたが、お昼の番組にちょっと出てきてにぎやかす彼らを見て笑うことはなかった。

 そして、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」の土曜日をABブラザーズが担当していることを知り、ちょっと期待してラジオを付けたが、30分ほど聞いてスイッチを消した。

 とてつもなく頑張っているのだろう。だが、頑張っているかどうかは視聴者やリスナーには関係ない。

 素人の僕にとって、中山秀征は「関係ない人」になっていった。だが、どんどん露出は増えていく。

 僕の印象は「とにかく明るい」人であった。どこに出ても明るい。

 だから嫌いにはなれなかった。

 気づくと司会もするようになった。ずっと明るかった。

 1992年。僕はこの業界に入り、放送作家を始める。当時19歳。絶対、おもしろいものを作ってやると意気込んだ僕の最初の仕事はニッポン放送の番組だった。

 目の前の大人たちは誰も僕のほうには見向きもしない。

 周りには若き優秀な作家さんたちが沢山いた。ニッポン放送は来るものを拒まない。入れてはくれる。だけど、そこから登っていけるかどうかは自分次第。

 そこで僕は自分の才能のなさを知ることになる。「センス」を持ち合わせている人は僕よりほかに大勢いたから。

 センスでは敵わないと、大人たちが知りたいことを知っている存在でいようと思った。映画や音楽、ドラマはもちろん、最近流行りの風俗まで。僕に聞けばなんでも知っている存在でいようと我武者羅になった。

 大人たちに面白がってもらえるように、知らない映画も毎日見た。大人たちが「おもしろい」という本があれば読み漁った。

 仕事がそんなにあったわけじゃないが、寝なかったと思う。寝ずにいろんなものを吸収していた。

 そんな僕は、徐々に大人たちに興味を持ってもらえるようになった。書き物のセンスで注目されたわけじゃない。「こいつ、近くにいるとなんか便利なんだよな」と思ってもらえるようになった。仕事もどんどん増えていった。

 テレビをつけると日本テレビで「電波少年」が始まり、そこから、おちまさとさん、そーたにさん、沢山の作家さんが羽ばたいていった。とても嫉妬した。

 僕はいつかフジテレビでバラエティー番組の作家になることを目標にしていたが、それも遠くに感じた。

 なりたい自分になれてない。

 そんな時だった。

 フジテレビ深夜で始まった番組、「殿様のフェロモン」。司会は、ダウンタウン一派として注目されていた今田耕司。そしてもう一人が中山秀征。

 初めて見たその番組には生放送なのにとてつもない緊張感が漂っていた。今田耕司が中山秀征の言うことに反応しない。

新潮社 波
2024年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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