知の巨人の手に成るミステリー 荘重なる世界はまさに知の迷宮

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薔薇の名前<上>

『薔薇の名前<上>』

著者
ウンベルト・エーコ [著]/河島英昭 [訳]
出版社
東京創元社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784488013516
発売日
1990/02/18
価格
2,530円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

知の巨人の手に成るミステリー 荘重なる世界はまさに知の迷宮

[レビュアー] 吉川美代子(アナウンサー・京都産業大学客員教授)

 映画『薔薇の名前』の日本公開は’87年末。原作は’80年に発表され、世界中で驚異的なベストセラーになった。作者は記号論学者にして哲学者、歴史家、知の巨人ウンベルト・エーコ。日本では’90年に出版された。

 物語の舞台は1327年初冬、北イタリアの峻険な山にそびえる巨大な修道院。ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との覇権争いが繰り広げられていた当時、宗教界でもフランチェスコ会、ベネディクト会、ドミニコ会や多くの分派が対立し、異端審問(いわゆる宗教裁判)と異端者の火あぶりが頻繁に行われていた。各国から学僧や修道僧が集まり、他では類を見ないほど多くの蔵書を誇る由緒ある修道院で連続殺人事件が起きる。皇帝の外交特使として会議のためにここを訪れたイングランド人修道士ウィリアムは、弟子の見習修道士アドソと共に事件の解明にあたることに。この推理小説のような部分が物語の主旋律。これにいくつもの旋律が重なり物語は展開する。神、キリスト、信仰、異端、善悪、愛、「黙示録」。事件解明のカギとなるのは迷宮のような構造の文書館だが、実は小説そのものが知の迷宮なのだ。

 映画ではショーン・コネリーがウィリアムを演じ、英国アカデミー賞の主演男優賞を受賞。中世の雰囲気が色濃い重厚なミステリー作品となった。

 薔薇の名前とは、修道院滞在中にアドソが生涯ただ一度の性的関係を持った貧しい村娘の名前という解釈が一般的。原作では、娘は捕まり、いずれ火あぶりとなる運命。アドソは「生涯において、ただ一度めぐり合った地上の恋人、その名前すら、私は知らなかったし、その後も知ることがなかった」と回想。映画では娘は無事。この地を去っていくウィリアムとアドソを道端で見送るラストシーンに、原作と同じアドソのナレーションが流れる。故に、娘を薔薇に例えたと考えられるのだが、碩学エーコが浅学の私にすぐに解ける単純な言葉の仕掛けをするはずがない。小説は次の引用詩句で終る。「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」。

 様々な解釈が可能だ。題名も迷宮の一部……。

新潮社 週刊新潮
2024年6月20日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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