あるアラサー男性が、もっとも魅力的に映る瞬間――君嶋彼方『一番の恋人』レビュー【評者:三宅香帆】

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一番の恋人

『一番の恋人』

著者
君嶋 彼方 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041147900
発売日
2024/05/31
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

あるアラサー男性が、もっとも魅力的に映る瞬間――君嶋彼方『一番の恋人』レビュー【評者:三宅香帆】

[レビュアー] 三宅香帆(文筆家・書評家)

■好きだけど、愛したことは一度もない。『君の顔では泣けない』の著者が描く、恋愛を超える愛の物語
『一番の恋人』レビュー

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あるアラサー男性が、もっとも魅力的に映る瞬間――君嶋彼方『一番の恋人』レビ...
あるアラサー男性が、もっとも魅力的に映る瞬間――君嶋彼方『一番の恋人』レビ…

評者:三宅香帆

他人の本心はわからない。……当たり前のようなこの事実を、年齢がアラサーにもなると、なんだか忘れてしまう。いつも一緒にいる隣の人が、何を考えていて、何を大切にして、何を感じているのか、案外わからないものだ。が、それなのに私たちはどうしても他人のことをわかったような気持ちになってしまうから、人間関係は難しい。君嶋彼方の小説を読むと、その難しさに常に立ち向かう優しさが描かれていて、読後誰かに優しくしたくなる。とくに本作は、そのような心地になる読者が多いのではないだろうか。
主人公の道沢一番は「イケメン」「社内の星」と評されるほど、容姿や立ち振る舞いに申し分ないサラリーマンである。恋人の千凪ともうまくいっているし、月に一度顔を見せる実家の家族とも仲が良い。父から「男らしくあれ」と育てられてきたとおり、自分は男性としてまっとうな人生を歩むのだと思い込み、順風満帆な日々を送っていた。が、ある日千凪にプロポーズしたところ、思わぬ回答をもらってしまう。千凪の秘密を知った一番は、父から繰り返し説かれてきた「男なら結婚すべき」「結婚して幸せな人生を送るべき」という考え方と向き合うことになるのだった。
一番の実家は、父が絶対的な規範として存在し、幸福の形を決定する家族である。それはたとえば家族でケーキを食べる時、父が好きなショートケーキを誰一人奪おうとしないし、父も譲ろうとしないという描写で表現される。しかし、なんと千凪が一番の実家にはじめて来た時、偶然にも千凪はショートケーキを父からはじめて奪うのだ! そしてその後、千凪の存在によって、一番も一番の実家も、幸福のあり方をはじめて考え直すことになる。父の敷いた絶対的な幸福の規範にひびが入ったのだ。そして一番は、それまでにない想像力を得ることになる。
千凪との出来事は、一番にとって、これまでにないくらい、痛くて、惨めで、しんどい経験だった(もしこの書評を読んでくれているあなたが一度は結婚を考えたことのある方ならば、「アラサーで結婚を考え二年付き合った相手の、思いがけない秘密を知り、結婚を考え直すことになる」という経験がどれほど痛くて惨めでしんどいものか、容易に想像していただけるのではないだろうか……)。しかし面白いのが、どう考えても千凪の秘密を知った後の一番のほうが、読者にとってはずっと魅力的に映ることだ。惨めでしんどい思いをした後のほうが、人間は素敵に映るのか、と私は本作を読んでなんだか感動してしまった。つまりそれは一番の想像力が広がり、「他人とは何を考えているのかわからないものだ」という考えを身に着けたからだろう。結局、想像力なんて能力は、想像の範疇になかった他者の本音を聞いた時にしか、広がっていかないものなのかもしれない……つまり、ある程度「痛い」経験なしに想像力が養われることなんてないのかも……なんて本作を読むと思ってしまう。
三十歳くらいまで生きると、どうしても他人の考えていることをなんとなく推しはかることができている気がしてしまう。それゆえに自分の想像から外れた他人のことを、どんどん許容できなくなってしまう。「なんであんなことをするのだ」「意味がわからない」と。しかしそれでも私たちは、他人と生きていくしかない。わかり合えない他人と、それでも他人を大切にするしかないのだ。
さまざまな幸福のあり方が唱えられる昨今、私たちは隣にいる他人の本音を、本当にわかっているだろうか? 本作は私たちにそう問いかける。わからない他者と、それでも生きていこうとする姿勢そのものを、私たちは優しさと呼ぶのかもしれない。本作を読み終わった後むしょうに誰かに優しくしたくなるのは、優しくあろうと苦心して試行錯誤する姿勢がとても魅力的であることを、一番を通して知ってしまったからだと思う。

KADOKAWA カドブン
2024年05月31日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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