[本の森 SF・ファンタジー]『ここはすべての夜明けまえ』間宮改衣
[レビュアー] 北村浩子(フリーアナウンサー・ライター)
間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』(早川書房)の語り手「わたし」は、九州の山奥で「かぞく史」を書き始める。101年前、25歳の時に受けた「ゆう合手じゅつ」で機械の身体となった彼女は、唯一の話し相手だったシンちゃんが死んだことでひとりになり、2123年10月1日の「いま」から過去を振り返ろうとしているのだ。家中の紙をかき集め、手書きで時間を辿る。脳内メモリに記録された「映ぞうや画ぞう」は饒舌に言葉に移し替えられ、画数の多い漢字は「めんどくさい」のであまり使われない。ほとんどひらがなで綴られているため見た目は柔らかいが、少しずつ明かされる「かぞく」の内情は字面の印象を裏切って凄まじい。
母は「わたし」を産んだ時に亡くなり、父は母に似ている「わたし」を溺愛した。兄と2人の姉はそれをひどく嫌悪した。「わたし」は10歳の頃から長く心身に不調を抱え、ある時父に自殺願望があることを告げる。〈わたしがいきててくるしかったことをだれより近くでみてしっていたはず〉の父は激高し、「わたし」が死ねないよう、死なないよう大金を出して「ゆう合手じゅつ」を受けさせたのだった。
「わたし」が機械の身体を得た日に、下の姉が男の子を出産。「わたし」は甲斐甲斐しくその子の世話をする。やがて成人した彼、シンちゃんと「わたし」は恋人になる……おむつを換え、離乳食を与えた甥っ子と。25歳のまま年を取らない「わたし」は彼の人生すべての時間に濃密につき合い、看取りまでをやり遂げる。この「かぞく史」は、実は彼に対する贖罪の記でもあることが読み進むにつれ分かってくる。
なぜ謝るのか。謝らなければならないのか。物語の後半、「かぞく史」はある人物とのやり取りに変わるのだが、その中で「わたし」はこう述べる。〈じぶんをゆるさないことでしか、ほんとうのいみで、じぶんをゆるせないんです〉
「わたし」は悔やんでいる。生身の人間である彼に愛されたことを。愛したこと、ではなく愛されたこと、愛させたことを。この物語はさまざまな問いを包含している(優れた小説には必ず問いが存在しているものだ)が、個人的に最も鋭く突き刺さったのは「あらゆる幸・不幸は人が肉体を持っていることから生まれるのではないか」という問いだ。機械の身体に変えさせられた「わたし」が見つめるからこそそれは際立って眼前にあらわれ、終わりのある生を生きている私たち読み手の心に反射する。
ボカロや将棋、映画。「わたし」の振り返りに登場するいくつかの娯楽が意味を持って浮き上がってくるラストの展開がすばらしい。第37回三島由紀夫賞の候補にもなりノミネートによってさらに多くの人の手に届くであろうことが、作品のファンとしてとても嬉しい。