『大江健三郎論』
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<書評>『大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」』井上隆史 著
[レビュアー] 阿部公彦(東京大学教授)
◆異物感の先に何を読む
冒頭で著者の井上は告白する。大江健三郎の小説はずっと苦手だった、と。実はここが本書の眼目である。大江を読むとは、安易に共感し感動することではない。むしろ違和感を受け止めることなのだ。
振り返れば「奇妙な仕事」「飼育」などの鮮烈な初期作品から、『芽むしり仔撃ち』「セヴンティーン」『個人的な体験』などの問題作、そして『万延元年のフットボール』という頂点に至るまで、大江作品は強烈な臭気に覆われてきた。性や死や暴力の横溢(おういつ)は読者を戸惑わせる。そんな作品群の勘所をとらえるには、とりあえず表層的なストーリーから距離を置き、垂直水平といった軸や、らせん状の葛藤など力動的な感覚をとらえたい。著者はそんな読みの手ほどきをした上で、こう問う。
大江は戦後民主主義の守り手として社会運動にコミットし、障害を抱えた長男に寄り添った。国内各賞からノーベル文学賞まで広く受賞し社会的な評価も高い。でも、そんな枠に収まらない危うさが大江にはあるのではないか?
難しいのはここからだ。著者は作品中で言及される「本当ノ事」には、まだ充分に解明されていない危険な真実があるとする。とりわけ後期の『水死』では、排除された暗部が露呈する。
大胆な主張だけに、新書サイズではなくより重厚な議論で読む必要があると私は感じたが、興味深いのは本書自体が一つの異物を抱えることだ。大江に対する訴訟を扱った章である。『沖縄ノート』には戦時中の住人の集団自決についての記述があるが、これが誤りを含み名誉を傷つけるとして、関係者が2005年に訴えを起こしている。戦時下の沖縄の事実をどう語るか。逸脱的とも見える章だが、本書中では奇妙に重みがある。たしかに引用される関係者の証言は意味深長で、資料としての価値も高い。大江作品の抱える異物感と、戦争を語ることの困難とが重なり、入門書の枠を越えた問題意識に導かれる一冊となっている。
(光文社新書・1100円)
1963年生まれ。白百合女子大教授。『暴流(ぼる)の人 三島由紀夫』など。
◆もう一冊
『新しい人よ眼ざめよ』大江健三郎著、リービ英雄解説(講談社文芸文庫)