世の中や人の心の真理に触れたかのような、大きな魅力を持つ時代小説 高瀬乃一『春のとなり』

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春のとなり

『春のとなり』

著者
高瀬 乃一 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784758414647
発売日
2024/05/02
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

高瀬乃一の世界

[レビュアー] 細谷正充(文芸評論家)

衝撃的なデビュー作から、評価の高い時代小説を書き続けている高瀬乃一。驚異的な新人の注目に値する三作目とは?

 ***

 二〇二二年に刊行された、高瀬乃一の『貸本屋おせん』は、衝撃的な作品だった。選考委員満場一致で第百回オール讀物新人賞を受賞した「をりをり よみ耽り」を含む連作集である。舞台は文化年間の江戸。女手ひとつで貸本屋をしている“おせん”が、さまざまな事件や騒動にかかわる。と書くと、女性を主人公にした江戸のお仕事小説と思われる人もいるだろう。それは間違いではない。だが、ヒロインのおせんを始め、シビアに描かれた登場人物に独自の魅力があった。各話の内容も、それぞれ工夫が凝らされており、とにかく読ませる。これは凄い新人が現れたと、大喜びしたものだ。

 そんな作者の最新刊が、本誌連載を経て一冊にまとまった、『春のとなり』である。こちらは長篇だが、やはりストーリーもキャラクターも巧い。物語は信州米坂藩から始まる。城下の武家町に居を構える医者の長浜文二郎だが、家督を息子の宗十郎に譲り、今は隠居の身である。息子が急遽出府し、嫁と二人きりで屋敷に留まることが気づまりな彼は、かつて屋敷に奉公していた女中のおかつが病に臥したと知り、ちょくちょく桑井集落まで診察に通っていた。そしておかつの行方不明になった孫娘を捜して皆と山へ入り、不思議な結晶を発見する。

 その結晶は何かと思う間もなく“序”は終り、第一話「雪割草」で文二郎は、息子の嫁の奈緒と共に、江戸は深川で薬の売弘所をしている。しかも、なぜか文二郎は盲目になっている。彼が医者だと知って、怪我人が運び込まれたりするが、手術をするのは舅の指示を受けた奈緒だ。このあたりは、『南総里見八犬伝』を執筆中に盲目になった曲亭馬琴と、難しい文字などを覚えて口述筆記をした息子の嫁のお路を意識したのであろうか。作者に聞いてみたいところである。

 何がどうなって二人が江戸暮らしをしているのか気になるが、ストーリーはどんどん進む。惚れ薬がほしいという深川芸者捨て丸がやってくるが、彼女が薬を飲ませようとする“平さん”は、時代小説でお馴染みの実在人物だった。捨て丸相手に、いい加減なことをいう文二郎に呆れる奈緒。だが彼は、捨て丸の言葉の裏にある気持ちを、しっかりと見抜いていたのだ。

 そんな文二郎の名探偵ぶりは、第二話「願いの糸」でも遺憾なく発揮される。第三話「冬木道」では奈緒が、ある事実に気づく。どちらの話も、それまで見えていた意外な人の心が露わになるのだ。作者はミステリーが好きなのか、『貸本屋おせん』や『無間の鐘』で、ミステリー味を強く出している。オリジナル時代小説アンソロジー『江戸に花咲く』に収録されている「往来絵巻」などは、立派な時代ミステリーといっていい。だから本書も自信を持って時代ミステリー・ファンにお薦めできるのである。

 なお第三話で文二郎は、「病人のなかには、身内の前では嘘をつく者もすくなくない」といい、“患者を診る前に、まず嘘を見分けることが肝要だ”と考えている。名探偵の資質は、それにより養われたのであろう。医者という設定の活かし方が見事である。

 一方、話が進むにつれて、文二郎と奈緒が江戸に出てきた理由が明らかになっていく。全体を貫く縦糸もミステリー仕立て。宗十郎はどうしたのか。二人は誰かを捜しているようだが、その目的は何なのか。情報を小出しにしていく手際が鮮やかだ。いったい何があったのかという謎で、読者の興味を、ぐいぐい引っ張ってくれるのである。

 そしてある程度の事情が判明すると、第四話「雪鳥」の二節で視点人物が文二郎になる。序を除いてそれまでの話はほぼ奈緒の視点だった。奈緒が何を考えているか、文二郎をどう見ているかは分かっていた。しかし文二郎の心の裡がはっきりしない。それが、この話で深く掘り下げられるのだ。また、文二郎から見た奈緒の、芯の強さを秘めていたり、意外と不器用な姿も楽しめた。複眼的視座が、キャラクターの肖像を、より明確にするのである。

 さらに、隣家の娘の絡んだ騒動も、きっちりと解決する。ここぞという地点で視点を切り替え、盛りだくさんの内容を捌きながら、物語の核心へと入っていく。まだ新人といっていい作者だが、これほど達者な小説技法を、どうやって身に付けたのだろう。ただただ感心するしかない。

 そして最終話「春の雪」で、文二郎と奈緒が、江戸に出る理由となった、憎むべき敵と対峙する。“平さん”の扱いや、史実である宝暦治水の絡め方など、虚実の融合のさせ方が優れている。迫力のあるチャンバラ・シーンもよかった。今までの体験を経て、奈緒が新たな自分の道へと踏み出していくラストまで、実に面白い作品なのである。

 ただし作者ならではの“辛味”は、本書でも健在。主人公たちの設定もあり、人の命や死について考えさせられる。特に病で余命幾ばくもない人物に対して文二郎が思う“不運も天命なのだ”という文章に出合ったときは、ドキリとした。賑やかな深川の人々など、登場人物に対する作者の眼差しは温かい。しかし随所で、ふいに冷徹になる。本書は気持ちのいいエンターテインメント・ノベルだが、世の中や人の心の真理に触れたような、玄妙な味わいがある。それこそが高瀬作品の大きな魅力になっているのだろう。

【著者紹介】
高瀬乃一(たかせ・のいち)
1973年愛知県生まれ。名古屋女子大学短期大学部卒業。青森県在住。2020年「をりをりよみ耽り」で第100回オール讀物新人賞を受賞。その後、「オール讀物」「小説新潮」などで短編を発表、2022年のデビュー作『貸本屋おせん』で第13回本屋が選ぶ時代小説大賞候補、第12回日本歴史時代作家協会賞新人賞を受賞。近著に『無間の鐘』。

角川春樹事務所 ランティエ
2024年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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