『しをかくうま』
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<書評>『しをかくうま』九段理江 著
[レビュアー] 長谷部浩(演劇評論家)
◆闇照らす原初の言葉
1字1句、1行1行、惜しむように読んだ。
九段理江による新たな創世記は、旧人類と新人類が地球で入れ替わるとき、馬が両人類を魅惑していく様子をその場に立ち会っているかのように語る。
冒頭、獣についての描写がすばらしい。胴体、首、顔、耳を克明に描き、四肢の素晴らしさが説かれ、声は「乗れ」と言った。馬という存在への限りのない愛に貫かれている。
また並行して描かれる現代で、競馬中継を担当するアナウンサーの「わたし」は、競走馬の馬名が10文字までつけられるようになった発表に衝撃を受ける。9字から10字へ。1字の追加によって世界が変容する。そう捉えて物語が展開する。レオナルドダヴィンチやアルチュールランボーやエミリーディキンソンのような10文字の名前を持つ馬が、ターフを走り、それを実況するときを「わたし」は夢想する。
原始時代と現代を自在に往復する構成。ヒトはウマと出合うことによって、遥(はる)かな距離をまたぎ、速度に酔う快楽を手に入れた。自動車や航空機ではない。インターネットでもない。本書は、同じ動物として、異種に触れるときの衝撃を描く。文明の根源に何があったかを教えてくれる。
「わたし」は、根安堂太陽子(ねあんどうたいようこ)と名乗る奇妙な人物と出会う。彼女は「名前は詩です」と宣言し、続ける。「人間の言葉を覚えたのなら、詩を読むに越したことはない。なぜなら我々人類をこんなところにまで連れてきたのは、他ならぬ言語だからです」。彼女が属する謎めいた組織に導かれて、「わたし」は真実へと肉薄していく。
「だからこそ、詩。もっと詩が欲しい」と彼女は求める。名前を付けるということ、詩を読むということは、見えないものを見えるように、闇に月の光をあてることなのだ。真実はいつもシンプルだ。“始めに言葉ありき”。新約聖書「ヨハネによる福音書」の第1章が思い出される。著者の志の高さに打ちのめされた。
(文芸春秋・1650円)
1990年生まれ。作家。今年1月、「東京都同情塔」で芥川賞受賞。
◆もう一冊
『精霊の王』中沢新一著(講談社学術文庫)。国家の誕生と古層の神の零落を描いた。