ジャーナリズムをめぐる真剣な議論の記録――ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール『ジャーナリストの条件―時代を超える10の原則―』

エッセイ

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ジャーナリストの条件

『ジャーナリストの条件』

著者
ビル・コバッチ [著]/トム・ローゼンスティール [著]/澤 康臣 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
社会科学/社会科学総記
ISBN
9784105074111
発売日
2024/04/25
価格
2,750円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ジャーナリズムをめぐる真剣な議論の記録

[レビュアー] 澤康臣(ジャーナリスト/早稲田大学教授)

ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール『ジャーナリストの条件―時代を超える10の原則―』

 ***

 とにかく人が出てくる本である。ページをめくるたび、記者たちの、あるいはジャーナリズムに関わる人たちの、悩み、怒り、ぼやく姿と言葉がある。ジャーナリズム論の世界的な基本書だというから、いかめしく大上段に構え、厳しく理屈っぽく――そんな予想は見事に覆される。

 新聞を読む人もテレビを見る人も減っている。報道メディアから人が離れていく。そんな時代、それでもSNSの情報だけだと心許ないのはなぜか。いずれ慣れるのか、それとも何かが違うのか。では報道とは何か。それを考える人たちの言葉を追い、米ジャーナリズム界の現場まで目に浮かぶ、そんな基本書なのだ。

 悲惨なベトナムの戦況を知りながら記者に「楽観している」と述べた米国防長官ロバート・マクナマラと、その言葉に反し現実は深刻だという事実を取材して伝えようとし、しかし読者の信頼を得づらい匿名人物の話としてしか書けなかった「ニューヨーク・タイムズ」のデービッド・ハルバースタム、UPI通信のニール・シーハン。担当する報道番組が視聴率狙いの低劣なコメンテーターを入れると知り、生放送の中で抗議の辞職を表明したテレビキャスターや、格差社会と闘うデジタルメディアを作り、ショートメールを駆使して行政の不作為をあぶり出したジャーナリストといった勇気と創意の人たち。「ニューヨーク・タイムズ」記者のジェイソン・ブレアが常習的に行った捏造と、それを見逃してしまった幹部への同紙記者たちの反乱も描かれる。

「ワシントン・ポスト」のボブ・ウッドワードも何度か登場する。ある時はウォーターゲート事件の調査報道を行った伝説の記者として、ある時はドナルド・トランプに取材で食い込み、大統領としてコロナを軽く見る発言を繰り返しながら本当は危険性を知っていた――つまりトランプは市民にうそをついていた――ことを聞き出しながら自分の本の材料に取っておき、報道しないでいた者として。

 どの章も人々の言葉と行為を正確に実名で記し、善玉と悪玉に単純化せず、割り切れないものは割り切れないとして伝え、それでも何かの真実を探ろうともがく。この本自体が、ジャーナリズムを題材としたジャーナリズム作品なのである。

 日本で常に言われる「中立」を、この本はジャーナリズムに求めない。掲げられているジャーナリズム一〇の掟にも「中立」はない。むしろ安易な「足して二で割る」式の姿勢、例えば科学者の大多数が地球温暖化を科学的事実と考える中、あたかも反対説と五分五分のように伝えるようなやり方は市民に害をなすと断じる。そうなると日本でみられる「諸説あります」のわざとらしい文字列や「とりあえず両論併記」という態度は無責任であり、市民ではなく自分たちメディアを守るためのものであって、結局は無難と事なかれ主義による市民への裏切りだと気付くのである。

 この本がジャーナリズムに求めるのは中立でなく独立である。これが日本ではなかなか議論にのぼらない。英語圏でのジャーナリズムの話題では「インディペンデンス」が日常語であるのと好対照だ。取材対象、報道対象の利益のために報じるのではない、ニュースの当事者との一体化は厳に慎み、取材対象からあえて距離を置き、第三者として伝える。日本でのジャーナリズム論では「報道被害」が強く意識され、その反動のように「(報道対象に)寄り添う」という言葉を見ることが少なくないように思われる。だが寄り添うことが当事者との一体化を含意するなら、それは広報である。

 報道として少数者、被抑圧者・被差別者の立場と訴えを大切にし、真剣に注目することと、広報になることの間には厳粛な一線がある。もし、社会に伝えるべき大切な人だから広報化も許されると考えてしまえば、記者が理想や善を有力者に見いだしたとき、そこに一体化し、応援者となることも正当化されかねない。ジャニー喜多川はそんな善意から応援する記者に囲まれていた面があったのではなかったか。この本は、取材対象である有力者と一体化し無残に転落を遂げた米ジャーナリストたちの実例も挙げている。

 ジャーナリストの条件として示された内容も、またその語り口も、日本のジャーナリズム書とはひと味もふた味も違う。その口当たりは時に滋味深く、時に苦い。それを一つ一つ受け止め、日本語の文脈で伝えようとのたうち回ったことは、訳者として、ジャーナリストとして、重く、かつ輝かしい体験である。

新潮社 波
2024年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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