進学先を「天気」で決めた翻訳家・松岡和子のドラマチックな人生 シェイクスピアと格闘した女性を浅生鴨が紹介

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

逃げても、逃げてもシェイクスピア

『逃げても、逃げてもシェイクスピア』

著者
草生 亜紀子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784104640027
発売日
2024/04/17
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

進学先を「天気」で決めた翻訳家・松岡和子のドラマチックな人生 シェイクスピアと格闘した女性を浅生鴨が紹介

[レビュアー] 浅生鴨(作家)

 松岡和子さんは、日本の女性として初めてシェイクスピアの戯曲全37作の日本語訳を手掛けた翻訳家だ。日本人としては坪内逍遥、小田島雄志さんに続き三人目となる。

 その松岡さんの半生を描いた一冊『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)が刊行された。

 満洲で生まれた松岡さんは、4歳のときに日本に引き揚げ、親戚の家を転々とする生活を送った。父がシベリアに抑留され、女手一つで育てられた松岡さんの幼少期とは? そして文学との出会いやシェイクスピアに導かれた人生とは? 結婚や出産、介護や看取りなどの経験を明かしながら、翻訳家としての意思を貫いた一人の女性に迫った本作の読みどころとは?

 作家・浅生鴨さんによる書評を紹介する。

 ***

 何とも不思議な味わいのある本だなと思った。サブタイトルには「翻訳家・松岡和子の仕事」とあるが、仕事など遥かに超えた松岡の人生そのものがギュッと圧縮されていて、本書をあえて分類するならば、シェイクスピアの戯曲三十七作品をすべて翻訳したことで知られる松岡和子の評伝ということになるのだろうけれども、どうも単なる評伝という枠組みにも収まらない。

 なにせプロローグで登場した松岡は、印象的な台詞をいくつか述べたあと一度舞台から退き、まずは時を遡って両親の生い立ちがたっぷりと紹介されるのである。

 特に父・前野茂の十一年にものぼるシベリアでの抑留体験は圧巻で、もはや一場の前口上役では終わらない存在感。もちろん舞台の端に松岡は立っているものの、一幕はまるごと前野茂が主役と言ってもいいほどである。

 その一幕の終わりでなんとか死地シベリアを抜け出し日本へ戻ってくる前野。そこでようやく主役が入れ替わり、中学二年生、当時十四歳の松岡和子がついに前へ出てくるあたり、なんだかドラマの原作を読んでいるような気になってくる。

 主役の松岡はものごとを緻密に考えながらも、ときに場当たり的な結論を下すキャラクターで、天気で進学先を決めたあたりなどは、あまりの適当さにうっかり噴き出しそうになる。

 英文科へ進んだ松岡は、ちょうど一九七〇~八〇年代の演劇ブームに歩調を合わせるように少しずつ劇評や翻訳の世界へと足を踏み出していく。

 僕は残念ながらそのブームには間に合わず、九〇年代初めに小劇場の周辺をうろうろしながらその残り火を追いかけていた世代だ。

 本書の中に次々と登場する劇団、演出家、俳優たちはまさに当時の僕が憧れ追いかけていた人たちということもあって、松岡の人生とともに、演劇史の一端を振り返るような懐かしさがある。

 ところで、劇評を始めてまもない松岡が、作家からの感想を葉書で受け取ってハッとするくだりがある。

『言わずもがなのことながら、劇評家が芝居を評するように、作者も劇評する者を評価している。和子はうれしいと同時に「怖いな」と思った』

 この場面を読んで僕もまたハッとすることになる。僕は今この本の書評を書いているわけで、これを読んだ著者もまた僕を評価するのだ。葉書を受け取った松岡と同じように僕も「怖いな」と思った。なんだか作中に罠が仕掛けられたような気分である。

 教鞭を執りながら、劇評と海外の舞台作品の翻訳を行っていた松岡はやがてどっぷりとシェイクスピアの世界へ入り込むことになる。

『和子はよく「シェイクスピアから逃げても逃げても捕まる」という言い方をするが、こんな風に、行く先にはいつもシェイクスピアがいた』とあるが、本当に松岡はシェイクスピアから逃げていたのだろうかと僕はやや疑問に思っている。すっぽりと目を覆った手のひらの隙間からこっそり見るように、あるいは捕まるギリギリの距離を保ちながら、遠巻きにしていたのじゃないだろうか。なにせシェイクスピアの翻訳では「ギリギリを走り抜ける」言葉を探し出そうとする松岡である。シェイクスピアそのものともギリギリの距離を保っていたのではないだろうか。

 ともかくついにシェイクスピアに捕まった松岡は一九九四年、『夏の夜の夢』を翻訳することになる。幸運だったのは舞台で上演されることが決まっていたことだ。

 ソシュールを引き合いに出すまでもなく言葉は音である。特に舞台の言葉は俳優が口にする言葉、観客が耳で聞く言葉だ。文字として記されたときには過剰な装飾だと感じられる言葉も、音になればその装飾が芯となる言葉を包んでイメージを補強する材料になる。そうやって何もない舞台空間に僕たちは想像の力だけで世界そのものを構築する。それが演劇のおもしろさであり、映像作品にはない無限の可能性なのだ。

 脚本の文体とは舞台上で奏でられる音の響き方なのだろうと僕は考えている。台詞のリズムとメロディー、会話のハーモニーとグルーヴこそが脚本の文体そのものなのだ。

 もともと演出家を志望していたことや舞台に立った経験のあることが、おそらく彼女の文体をつくり出している。そして、きっとそれが多くの演出家たちに支持され、採用される理由なのだろう。

 松岡は翻訳しながらその役になるという。想像の舞台上で役を演じる松岡は、自分の訳した脚本で演じる最初の役者なのだ。

 翻訳は本役、訳者は役者、なのである。

 それにしても、たった一行の英文を訳すのにこれほどまでの資料を集め、分析し、熟考に熟考を重ねるのかと驚かされる。今後は翻訳劇を観るときに、そうしたとてつもない作業が裏に隠れていることも意識しながら観ることになりそうだ。

 著者の草生亜紀子氏についても触れておこう。氏は新聞や雑誌などジャーナリズムの世界に長くいた人である。松岡による「シェイクスピア講座」をたまたま手伝ったことをきっかけに、シェイクスピアのおもしろさはもとより、松岡和子そのものに魅了された一人である。ジャーナリストらしい飾りのない簡潔な文章は松岡和子の入門書に相応しい。この本をきっかけに松岡和子の世界へ、ひいてはシェイクスピアをはじめとする演劇の世界へ足を踏み入れる人が増えるといいなと思う。

 もう一点。本書のおもしろさは、ときおり割り込んでくる家族の話にある。できごとを時系列どおりに並べるのではなく、そのときのエピソードに関連する話をカットバック的に挟み込んでいて、これがまたドラマっぽさを強めているようだ。

 草生氏は自分には文学的素養などないと謙遜するが、本書をぜひ連続ドラマの脚本として書き直してもらいたいものである。

新潮社
2024年4月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク