福沢諭吉から名もなき野球選手まで、日常生活に活かす「哲学」のすすめ

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1日10分の哲学

『1日10分の哲学』

著者
大嶋仁 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784106110313
発売日
2024/02/17
価格
880円(税込)

【毎日書評】福沢諭吉から名もなき野球選手まで、日常生活に活かす「哲学」のすすめ

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

現代はAIすなわち人工知能の時代である。AIは人類に多大な利益をもたらすにちがいないが、人類文明を破壊する危険性を持つ。うまく使いこなせればそれでいいではないか、というのは甘すぎる。その根本原理を知らねばならない。

そうなると、必要になるのは哲学である。物事の根本の原理を追求する哲学である。ところが、多くの人は「てつがく」の「て」の字も知らない。本書を書こうと思いいたったゆえんである。(「まえがき」より)

1日10分の哲学』(大嶋 仁 著、新潮新書)の冒頭にはこう書かれています。

なお本書でいう哲学は、従来の哲学よりも範囲が広いのだとか。なぜなら生物学や地質学を含めた科学も、あるいは詩歌や演劇も、ときに哲学的な問題を提起していることが少なくないから。なるほど、わかる気がします。

また、本書にはいろいろな哲学者や思想家が登場するが、彼らの言葉をそのまま引用することは避けた。およそこういうことを言っているという程度にし、そこに私流の解釈を加えている。

専門家を自負する方々は「勝手なことを言ってやがる」と目くじらを立てるかも知れないが、本書は一般読者にわかりやすいこと、興味を持ってもらえることを最優先する。読者ひとりひとりに、一日に少しでも考えることをしてもらいたいからである。(「まえがき」より)

つまり読者は本書を通じ、哲学の片鱗に触れることができるということ。そしてそこから、(著者がそうであるように)自分なりの解釈を広げていくこともできるわけです。

きょうはそんな本書の第1章「デカルトから大阪人まで 日常生活の哲学」のなかから、興味深いトピックに焦点を当ててみたいと思います。

間違ってもいい、決断したら迷うな

人は誰しもある程度の年齢に達すると、自分の生き方や考え方の基礎を固めたくなるものだと著者は指摘しています。

「そんなことはない、自分はなにも考えずにただがむしゃらに生きている」と反論する方もいらっしゃるかもしれませんが、その「なにも考えずにただがむしゃらに」が、すでにその人の哲学だと解釈することもできるというのです。

だとすれば、ここでいう「哲学」を「生きざま」といいかえることもできそうです。すなわちそれは、「私はこう生きています」という生きざまの表明だということ。

十七世紀のヨーロッパにデカルトという人がいた。この人は近代哲学の創始者と呼ばれ、学問としての哲学を前進させた人である。今日ではいろいろ批判され、それらの批判はたいてい妥当と思われるのだが、なかなか面白い生き方をした人で、彼なりの生き様があったことは確かだ。(12ページより)

デカルトは学問のことばかり考えていたわけではなく、軍隊に入った経験もあれば、いろいろな職人と話し合う機会もつくり、広く世の中から学んだ人。それどころか、ひとりの女性をめぐって恋敵と決闘したこともあるというのですから驚きですが、きっとそこには彼なりの哲学があったのでしょう。

では、そんなデカルトの生きざまとはどういうものだったのでしょうか? 彼自身のことばによれば、それは「決断したら迷うな」だったそう。だからこそ、決闘までしたのかもしれません。

デカルトはいう、「森の中で道に迷ったらどうするか。一刻も早く森から出なくてはならないが、道がいくつかあって、どの道を選んでよいかわからない。

そういうとき、自分ならこれと一つ決めて、その道をただひたすら歩む。

正解かどうか、どうせわからないのだから、迷わないほうがいいに決まっている」と。これが彼の生きざま、すなわち哲学である。(12ページより)

ちなみにデカルトに関するこのトピックから、話題は“名前を覚えていない”野球選手のことへと話題が移っていきます。(11ページより)

名もなきピッチャーのことば

著者によればその野球選手は「だいぶ前にアメリカの大リーグで首位打者になった人」なのだそうですが、にもかかわらず、その名前が思い出せないというユルさがなんともご愛嬌。いずれにしても、その人がこう話していたのを「ビデオで見たことがある」というのです。

「バッターボックスに入ったらピッチャーの顔を見て、そうか、カーブで来るんだなと予測したら、もう迷ってはダメだ。

カーブが来なかったら空振りするだけのことさ。そのあと、次の球はまたカーブか、それとも直球か。

ピッチャーの顔を見て決めて、また思い切り振る。そうすれば、三回に一回はバットの芯に当たるよ。これで三割が確保される」(13ページより)

本当にカーブが来るかどうかはわからないけれど、カーブと決めたら迷わずそれを待つそのスタンスが、三割打者になる道だということです。

当然ながら相手側のバッテリーも、そんな打者の裏をかこうとするでしょう。しかしその大打者は、「そんなことは関係ない。一球ごとにピッチャーの顔を見て、『次は直球』と思えば、今度は直球を待つ。それが外れたら『残念でした』というだけのこと。統計に頼るより、一度決めたら迷わないほうが実戦では役に立つ」と話していたというのです。

これは非常に説得力のある話で、しかも野球だけではなくさまざまなことがらに当てはまるのではないかと思います。

彼のバッターとしての信念は「ストライクは必ず振る」だったそうだ。すると、三回に一回はバットの芯に当たるというのだ。

三回振って三回芯に当たることは所詮不可能だと心に決めて、振って、振って、振りまくればいつか必ず当たるというのだ。(14ページより)

逆にいえば、見逃しはいけないということ。なぜなら、見逃したら当たることがないのだから。当たるためには運も必要ですが、振らなければその運も来ないというわけで、そんな考え方のなかにも「哲学」があるということなのでしょう。(13ページより)

福沢諭吉も?

さてさて、話は続いて、幕末・明治に活躍した日本近代化の立役者である福沢諭吉へとつながっていきます(こうしたフットワークの軽さも本書の魅力)。

彼の哲学は「まゝよ浮世は三分五厘。間違えたらばひとりの不調法」である。「世の中ってたいしたもんじゃない。三分五厘の値打ちなんだ。だから思い切りやるさ。失敗したって俺一人が困るだけじゃないか」という意味である。(14ページより)

福沢はこうした哲学で幕末・明治の波乱に満ちた時代を生き抜いたわけで、「なんともすがすがしいことばだ」という著者の意見にも共感できる部分があるのではないでしょうか?(14ページより)

私たちが知っておくべき、あるいは考えるべき“哲学に付随した問題”がふんだんに盛り込まれた一冊。しかも、どこからでも読むことが可能なので、無理なく哲学の本質に触れることができるわけです。

Source: 新潮新書

メディアジーン lifehacker
2024年3月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

メディアジーン

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