第54回星雲賞受賞作。――劉慈欣『流浪地球』レビュー【評者:加藤 徹】

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流浪地球

『流浪地球』

著者
劉 慈欣 [著]/大森 望 [訳]/古市 雅子 [訳]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784041145579
発売日
2024/01/23
価格
1,320円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

第54回星雲賞受賞作。――劉慈欣『流浪地球』レビュー【評者:加藤 徹】

[レビュアー] カドブン

■中国大ヒット映画原作、SF短編集!『流浪地球』レビュー

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第54回星雲賞受賞作。――劉慈欣『流浪地球』レビュー【評者:加藤 徹】
第54回星雲賞受賞作。――劉慈欣『流浪地球』レビュー【評者:加藤 徹】

■SFと「科幻」――劉慈欣文学の魅力

書評:加藤 徹(明治大学教授)

 サイエンス・フィクションを、日本人は「空想科学」と訳し、中国人は「科幻(かげん)」(科学幻想)と訳す。
 空想科学と科幻。英訳は同じSFでも、文学ジャンルとしての両者の性格は違う。
 私たちが暮らしているこの地球は、二つの世界に分かれている。ゴジラ的な映画を作れる「空想科学」系の国々と、作ることが許されない「科幻」系の国々だ。

 日本人は、怪獣が東京を焼き、自衛隊の戦車を踏みつぶす映画を好む。アメリカ人も、宇宙人がホワイトハウスを壊し、UFOが米空軍の戦闘機をハエのようにバタバタと落とす映画を楽しむ。イギリス人も、十八世紀の小説『ガリバー旅行記』でガリバーが小人国の王宮の火事を小便で鎮火して以来、実在の国家や社会をシニカルに風刺するはたらきをSFに託してきた。
 日本をふくむ空想科学系の国々では、SFの使命は思考実験だ。いま私たちの目の前に存在する強大無比な国家やイデオロギー、宗教、社会が崩壊したら、私たちはどう行動するか。思考実験、つまり考えること、が空想科学の醍醐味である。小松左京は『日本沈没』や『物体O』を発表できた。彼は日本の作家だった。

「科幻」系の国々は違う。これらの国々では、SFといえども、現実の自国政府とは無縁な「幻想」つまり浮世離れしたファンタジーでなければならない。
 もし、自国の首都を怪獣や宇宙人など外部の侵略者が焼き払うシーンを描いたら? もし、現在の国家や執政党が崩壊し自国の軍隊も人民を守るうえで無力だと作品の中で書いたら?
「科幻」系の国々では、たとえ虚構でも、そんな空想を発表した作家は、ただではすまない。
 中国において、SFが長いあいだ不毛だった一因は、ここにある。

 劉慈欣氏は、中国を代表する「科幻作家」である。科幻作家の必須条件は、クレバーであることだ。
 劉氏の出世作『三体』の物語は「文化大革命」から始まる。未読のかたへのネタバレを避けるため詳しくは書かないが、中国政府や中国の人民の目から見て、この作品はクレバーで、安心して推奨できる。「文化大革命」は、一九六六年から七六年まで続いた混乱期だった。電信の機器も技術も、アナログで未熟だった。当時の中国は貧しかった。米ソをさしおいて、社会を恨む中国人が最初に宇宙人と交信する、というあの物語の冒頭は、科学的には不自然だが、科幻としては正しい。「文革」は、中国共産党があやまちであったと失敗を認めている、唯一の時代だからである。
 本書に収められている短編もクレバーだ。
「吞食者」で、宇宙からの侵略者がむさぼり食うのは、中国ではなくて「ヨーロッパの首脳のひとり」である。
「呪い5・0」は、中国の科幻小説では珍しく、実在の中国本土の都会が火の海になる。が、ここにもクレバーな配慮が周到にめぐらされている。まず、舞台は北京ではない。漫画家の魔夜峰央氏が自分が住んでいた県をディスったギャグ漫画『翔んで埼玉』を発表したのと同様、劉氏は舞台として自分が育った山西省を選んだ。また、劉氏の作品は内省的で重厚なのに、この作品に限っては筒井康隆氏のスラップスティック小説や横田順彌氏のハチャハチャSF作品のようである。氏は意図的に、おバカ作品の筆致を徹底した。都市の壊滅の理由も、外部からの侵略者という外因ではなく、内因である。さらに自分自身を作品の中に滑稽な描写で登場させた。外国人が見ると悪ふざけのようだが、実は、どの一つの要素が欠けても「幻想」ではなくなる。ギリギリの作品なのだ。

 科幻は、現実社会との間合いに対する深謀遠慮を余儀なくされる反面、想像力の面では幻想の特権をフルにいかすことができる。
 そもそも、およそ三千年の歴史をもつ中国文学の歴史において、歴代の知識人や作者は、国家権力の統制の網の目をかいくぐるクレバーさと、現実をのみこむ気宇壮大な想像力をあわせもってきた。
 その意味で、科幻は、正統な中国文学である。劉氏は、漢文や漢詩、『三国志演義』や『西遊記』などの古典小説、魯迅や老舎、巴金など近代小説の系譜につらなる中国文学者だ。
 劉氏の作品の魅力は、壮大な想像力と、残酷なまでのリアルな「人間」の描写にある。この二つとも、中国文学の特徴である。
 
 本書の収録作品でいえば、「ミクロ紀元」には、漢文の故事成語「蝸牛角上の争い」や「南柯の夢」に通じる奇想天外な面白さがある。前者は、昔、カタツムリの左の角にある国と右の角にある国とが「大戦争」をしたが、宇宙的規模の視点から見れば、地上の国家どうしの戦争もつまらないことにこだわった争いにすぎない、という寓話。後者は、人間が夢の中でミクロ化してアリの国の文明国にまぎれこむ、という説話。中国人は昔からSF的な発想に富んでいた。
「中国太陽」と「山」は、唐の詩人・王之渙(六八八年―七四二年)の漢詩「鸛鵲楼に登る」の詩境に通じる。「白日、山に依りて尽き/黄河、海に入りて流る/千里の目を窮めんと欲し/更に上る、一層の楼」という王之渙の詩は、中国でも日本でも学校の授業の教材としてよく採られている。目の前に広がる壮大な景色に満足せず、もっと遠大な世界を見るためさらなる高みにのぼるのだ、という熱い精神を詠んだ詩である。

 一九六三年生まれの劉慈欣氏の子ども時代は「文化大革命」だった。当時、中国の人民は、子どもも含めて真っ赤な表紙の『毛主席語録』を手にふりかざし、内容を暗記した。毛沢東が演説の中で引用した漢文古典の四字熟語「愚公移山」は、劉氏の科幻のバックボーンの一つとなっている。
 むかし「愚公」つまり「おバカなじいさん」という九十歳の老人がいた。家の前にある巨大な山が邪魔なので、山を移そうとした。人間がバケツで運べる土の量なんて、ほんのちょっぴりだ。人の一生なんて、悠久の天地から見れば一瞬だ。が、愚公は言った。「わしが死んでも、せがれがおる。せがれが死んでも、孫がおる。人間は子々孫々、限りがない。が、山はどんなに大きくとも、土の高さは増えぬ。土をちょっとずつ運べば、だんだん減る。いつか必ず平らにできる」。愚公の情熱は天帝を感動させ、山は動き、広大な平野が開けた――と「愚公移山」の寓話は伝える。
 子どものころから「愚公移山」を暗記してきた中国人にとって、「流浪地球」の世界観は、すんなり胸に響く。

 劉慈欣作品の最大の魅力は、中国文学の特徴でもあるが、「人間」の描写である。人間の愚かさ、業の深さ、ちっぽけさを残酷なまでに描く。そのうえで人間への希望を捨てきれない。それが人間だ、という人間の真実を描くのが、中国文学三千年の伝統である。
「流浪地球」での、加代子の死や五千人の処刑のようなことは、リアルな中国史ではよくあることだ。「吞食者」の大牙は、
「もう二度とモラルを語るな。宇宙において、それは無意味だ」
 とうそぶく。「宇宙」を「中国」に置き換えると、科幻ではなくなる。大牙が、存亡をかけた死闘の末、地球人を、
「おまえたちはもっとも傑出した戦士だった!」
 と激賞するのは、『三国志』で、蜀の諸葛孔明の死後、彼と死闘をくりひろげた魏の司馬懿が孔明を「天下の奇才なり」と感嘆した構図と同じである。「公論は敵讐より出づるにしかず」( 頼山陽が三国志の英傑を詠んだ漢詩の名句)。血戦をくりひろげた相手からの評価こそ、最も公平で、万鈞の重みがある。
 日本の中学校の国語の教科書は、中国の作家・魯迅の短編「故郷」を載せる。魯迅は、人間の愚かさと小ささを、毒を含んだユーモアをまじえてシニカルに描きつつ、それでも、人間への希望を捨てきれない。劉慈欣文学には、魯迅と共通するものがある。

 本書の二人の訳者のうち、古市雅子氏は北京大学の現役の教員であり、日本最高の中国通の一人である。SFの専門家である大森望氏とのコンビネーションにより、劉慈欣氏のSF作家としての才能と、中国文学者としての魅力の双方を満喫できる、最高の日本語訳が誕生した。
 今回の文庫化により、中国文学の世界に接する日本の読者が増えることを、喜びとしたい。

KADOKAWA カドブン
2024年01月27日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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