遺伝がもたらす優劣にどう向き合うべきか? 「親ガチャ」問題を社会学者とサイエンス翻訳家が考える

対談・鼎談

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遺伝と平等

『遺伝と平等』

著者
キャスリン・ペイジ・ハーデン [著]/青木 薫 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
自然科学/生物学
ISBN
9784105073510
発売日
2023/10/18
価格
3,300円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

遺伝学に起こっている「革命」

[文] 新潮社

遺伝学にもビッグデータの時代

青木 おっしゃる仕組みについては、具体的に方向性が見えてきたといえますね。ただ、「ChatGPT」でも「GWAS」でも、データ学習の量がブレイクスルーを迎えていますよね。子どもたちの時代はどうなるのかと心配になってきます。

大澤 心配になる人もいるだろうし、それなら遺伝子を改造したいという人も出てくるかもしれませんが、この本は、希望通りの改造は事実上不可能だということも教えていると思います。
 ある種の遺伝病、たとえばハンチントン病など、単一の遺伝子に原因がある場合は別ですが、認知能力やあるいは高身長のようなもっと単純なものも含め、僕らが評価する能力や性質の大半は遺伝が関係しているけれども、それらは多数の遺伝子のものすごく複雑な因果関係の結果です。ある遺伝子を改造すれば、それは予期できない因果関係を通じて、別の能力や性質に否定的な結果を招きかねない。それどころか、ねらっていた能力や性質に対してさえ逆効果ということもありえます。遺伝子への介入を通じた意図的な改造は、事実上、不可能なのです。
 しかし、ある能力や性質に遺伝の影響があることが実証できていれば、遺伝子への直接的な介入とは別の方法で、不運を補償し、公正に近づけることができるわけです。

青木 詳しくお聞かせください。

大澤 この本ではっきりしたのは大きく二つだと思います。一つ目は、遺伝は複雑系で、それを下手にいじるとロクなことはないということです。二つ目に、複雑であっても、最終的に遺伝くじが関係していることが明らかならば、その「違い」に対しては、「公正としての正義」の観点からの補償や救済が可能だということです。

青木 「違い」に踏み込んで、有効に行動すべきですね。必要な手助けや公正平等を考えると、ゲノムブラインドは有効とは言えない。科学の使い方という観点で、新しい知見が出た時にどう生かすかは、人間や社会の方に委ねられているということでもあると。

大澤 科学と社会の関係で言うと、現代では科学の方のスピードが速いんですよね。我々がどう対応すべきかを定めるのがどんどん難しくなっている。科学的に可能なものをただ実行しているだけで、気づかぬうちに、これまでの常識や前提が破壊されていく。
 ChatGPTのような、大規模言語モデルの場合もそうです。その能力は、開発者の予想すらもはるかに凌駕している。今は、利用してよいものと、現時点では利用を抑制すべきものに分ける必要があるかもしれない。

青木 遺伝でいうと、ゲノムをいじって望む結果が得られるほど、シンプルではないということですね。
 そして、遺伝くじの結果のせいでアンフェアな事態が生じるなら、フェアになるように社会的に手助けしたい。

大澤 本書で使われている「公正としての正義」という言い方は政治哲学者のジョン・ロールズの言葉です。ロールズを批判する倫理学者や哲学者はたくさんいますが、人文社会科学系の学問の常として、批判する人が多いものほど、優れています。ロールズは明晰に「正義の原理」を定式化している点で、やはり基礎中の基礎だと思う。例えば累進課税はロールズが提起した「格差原理」という考え方で正当化できます。金持ちが損をするので不公平ですが、一番恵まれない人が得をする政策なので、正義に適っているというわけです。
 しかし、所得や資産の不平等より、遺伝が原因の不平等の方がより深刻です。長年その内実がわからなかった。そして、わかっているつもりでなされた措置は、とんでもない不正義や痛ましい結果をもたらした。しかし遺伝統計学の進歩によって、遺伝学は新しい局面に入ったわけです。そのような遺伝学ならば、公正な社会を実現するために活用できるし、活用すべきだというのが、ハーデンが勇気をもって主張したことでしょう。

青木 もちろん正義論はロールズの後に進展がありますが、ハーデンはおそらくそこまで視野に入れている。例えば障害者の問題もそうです。社会科学と自然科学の両輪、重要ですね。

(この対談は、2023年10月20日、東京・代官山蔦屋書店にて行われた)

 ***

大澤真幸
1958年、長野県松本市生まれ、社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。専門は理論社会学。2007年、『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を、2015年、『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』で河合隼雄学芸賞を受賞。主な著書に『〈自由〉の条件』『夢よりも深い覚醒へ』『日本史のなぞ』『可能なる革命』『〈世界史〉の哲学』、共著に『ふしぎなキリスト教』などがある。

青木薫
1956年生れ。翻訳家。訳書に『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『宇宙創成』などサイモン・シンの全著作、マンジット・クマール『量子革命』(以上、すべて新潮社)、ブライアン・グリーン『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(講談社)、トマス・S・クーン『新版 科学革命の構造』(みすず書房)など。著書に『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』(講談社)がある。2007年度日本数学会出版賞受賞。

新潮社 波
2024年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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