世界的ベストセラー『大聖堂』、日本語版で矛盾発覚…伝説の校閲者が明かした今だから言える大事件

対談・鼎談

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くらべて、けみして 校閲部の九重さん

『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』

著者
こいし ゆうか [著]
出版社
新潮社
ジャンル
芸術・生活/コミックス・劇画
ISBN
9784103553915
発売日
2023/12/20
価格
1,265円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

校閲者を漫画にしたら

[文] 新潮社


ケン・フォレット著『大聖堂』(上中下巻、新潮文庫)。現在は絶版。

今だから明かせる秘話

矢彦 そう言えば、僕が江藤淳さんの『漱石とその時代』を担当した時の話を漫画で描いてくれてるじゃないですか。

こいし はい、矢彦さんが古本屋を回って古地図を探した話ですね。

矢彦 そう。それで思い出した話が二つあって。一つは、ケン・フォレットの翻訳本、『大聖堂』(上・中・下巻)を担当した時のこと。『針の眼』のように緻密なミステリーを書くのが売りのケン・フォレットが、中世ヨーロッパを舞台に書いた大長編小説が『大聖堂』。その物語の最初の方で、ある人を埋葬するために森の中にお墓を作る場面が出てきた。そこからず~~っと話が進んだ後で、その墓地を探しに行く話が出てくるんだけど、場所を特定されないようにしていたので見つけるのが大変だったという記述があった。だけど、おかしいなと思ったんだ。最初の方では、目印になるようなものを作ったと書かれていたのを思い出してね。その矛盾を伝えたら、翻訳者の矢野浩三郎さんがびっくり仰天して。翻訳の間違いではなくて、原文がそうなっているのだとわかった。

こいし え、それでどうしたんです!?

矢彦 矢野さんが現地の人を通じて確かめてくれてわかったのは、元々ケン・フォレットは目印を作ったという設定で書いていた。だけど、作中の時代に、領主とか身分のある人の埋葬場所をわかるようにするのは御法度で、絶対わからないようにしていたと学者か誰かから聞いたらしい。それで、後ろの方は直したんだけど、初めの方は忘れてそのままになっちゃった。

こいし うわー! 誰も気づかなかったんですね。

矢彦 そう。それで矢野さんがわざわざ新潮社に来てね。「ケン・フォレットさんがびっくりしてたよ」っていうのを直接僕に伝えてくれた。イギリスで生まれたベストセラー小説が、遥か海を渡った極東の地・日本で、いち校正者の気づきにより改良されるのは何と不思議な話であろう……って感謝されましたね。

こいし そんなのどうして気づいたんですか? メモってたんですか?

矢彦 もちろんメモりますよ。ただ、これに関してはメモというより記憶だね。確か墓場はわかるようにしたって書いてたよなって思って、最初の方に戻って読んでみたら当たりだった。

こいし 最初にその場面を読んでから、後で出て来る場面を読むまでにどのくらいの時間が空いてたんでしょう?

矢彦 文庫3巻分あるからね。そんなすぐじゃなくて、一ヶ月とか、もっと空いてたかもしれない。同じような話がもう一つあってね。これも有名作家で、ジェフリー・アーチャーの『ロシア皇帝の密約』という作品があります。イギリスの元軍人とソ連のスパイの攻防を書いた非常に面白い内容で、細かい時の経過が重要な、これも緻密な小説。この翻訳のゲラで、途中で丸一日飛んでいるというか抜けている日があることに気づいたんです。

こいし えぇ~なくても読めてしまうけど気づいたってことですよね。それはどうやってわかったんですか?

矢彦 読みながら何月何日に何が起こって、次の日は……ってメモして行きますからね。それで翻訳者の永井淳さんに知らせたら、これは大変だってことになって。それで、こちらでうまく直して、ジェフリー・アーチャーには後で報告する形が良いということになり、僕も案を出して永井さんも一緒に考えて、何とか一日誤魔化せた。

こいし それってもう校閲の仕事超えてますよね!? 日にちをいじって何とかなったのがすごいですね。つまり、『ロシア皇帝の密約』は日本語版が完全版ってこと!?

矢彦 そういうことでしょうね(笑)。まぁ、そのままだったとしても、普通に読めてしまうので誰にも気づかれなかったかもしれないですけどね。ただ、もし時系列に従って内容をメモして読むような人がいたら、おかしいじゃないかと思うわけで、そこはやっぱり正すべきだと思いましたね。この二つは僕も楽しかったし、校正者をやってて良かったとつくづく思いましたね。

「校べて、閲する」とは


漫画では実名で登場する矢彦氏

こいし やっぱりレジェンドのお話はすごい! 改めてお聞きしたいんですけど、私が矢彦さんをそのまま描いたのを見てどうでしたか? 怖くて感想を聞いていなかったのですが……。

矢彦 すごいジジィに見えるなって……(笑)。

こいし デフォルメしてますので!

矢彦 真面目に言うと読んでいて楽しかったですね。有名作家さんにゲラを赤字だらけにされた話とか、「ゲラで戦う」って言葉が出てくる場面とかね。

こいし 矢彦さんは、校閲とはこうだ! とはっきり言葉にされるので、すごく衝撃的だったんです。矢彦さんにお会いするまでは正直、校閲者ってなんだろうと迷いながら描いているところもあったのですが、矢彦さんの言葉を聞いて道が見えたという感覚がありました。描いていて一番楽しかったのもこの回ですし。

矢彦 うんうん。ね、言葉って大事でしょ?

こいし 確かに!

矢彦 その回の最後が、また時々こうやって飲みましょうよって終わるじゃない。それがいいよね(笑)。それだけじゃなく、この作品にはメッセージがあるよ。

こいし 本とか文字を読むのが苦手な人でも、漫画なら読むっていう人がいます。一冊の本にどれだけの人たちが関わっていて、どんな思いが込められているのかをこの漫画で知ってもらい、本に興味を持って読んでくれる人が少しでも増えたらうれしいなって思うんです。そこから、校閲者にも興味を持ってくれたらもっといいなと思って描いています。

矢彦 いいねぇぇぇ!

こいし あと私自身、言葉について考えるのが楽しくなっています。この漫画を描いていると、昔あったのに今は消えた言葉を知ることができたり、逆に新しく生まれた言葉について考えたり、言葉の移り変わりって面白いなと気づきました。

矢彦 言葉の変遷というのは面白いし、難しい。校閲とか校正が生まれたのも、ある意味そこからですからね。昔の古い書物を新しく書き写した時に、まさに「くらべて、けみして」ということをやったわけで。


こいしゆうか……イラストレーター、漫画家、キャンプコーディネーター。

こいし おおぉ……タイトルが……!

矢彦 昔は紙に書かれた書物を筆写して複製していた。それをまた別の人が筆写していくと、間違った字を書いてしまう可能性が出てくる。だから元になった本と、新しく筆写されたものをくらべて、けみする(確かめる)。それが校閲という言葉の元々の意味ですよ。

こいし 印刷より前の時代からの話だったとは! ちゃんと伝えるというのが原点だったんだ!

矢彦 例えば書き写す人が下手で、場合によっては1枚飛ばして書いちゃうこともあるって本居宣長が随筆で嘆いてるんですよ。

こいし へぇ~~~~~。

矢彦 だから、くらべてけみする人がちゃんとしないと、古い文献が正しく残っていかない。本居宣長のような国学者たちは、ちゃんと後世に伝わることを念願していた。そのために校正が大事なんです。

こいし “直す人”ではなく、“伝える人”ってことですよね。今、お話を聞きながら感動しています。

矢彦 それがこの漫画のタイトルが持つ歴史的な意味ですから。昔の書物には、最後に「校」とか「挍」と記されて、そこに名前が書かれてあるんですよ。誰が校正したかというのが書かれてあった。校正者が一番大事だったわけです、その頃は。そんなお話を描いてみても面白いかもしれませんね。

こいし この漫画の中で物語として描きたいです。その時は、矢彦さんがくらべて、けみしてください!

新潮社 波
2024年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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