『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』
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[レビュアー] 後藤正治(ノンフィクション作家)
井上尚弥はWBC・WBO世界スーパーバンタム級チャンピオンとなり、無敗のまま四階級制覇を果たした。記録や成績もさることながら、圧倒的な勝ちっぷりに接すると、「日本ボクシング史上最高傑作」という形容も過剰ではないと思う。
著者は格闘技好きで、学生時代は後楽園ホールでアルバイトをしていた。長じて新聞社の運動部記者となるが、井上について、こんなジレンマを抱いてきたとある。
「(充分には)書けていない……伝えきれていない」と。それを埋めるものとしてはじめたのが、リング上で井上と闘い、敗れた者たちへの取材だった。
登場するボクサーたちは十余人。国籍は、日本・メキシコ・アルゼンチン・オーストラリア・フィリピンに及ぶ。彼らは井上というボクサーをこのように語っている。
「一番凄いのは心だと思う」「本気で殺しにきている」「凄まじいボクサーだよな」「かするパンチでも一発一発、凄まじい威力を感じたんだ」「まったく違う生き物」「電流がほとばしるようなパワー」「全部がバーンと抜けている」「一番の驚きは『賢さ』だね」……。
現像液に浸した印画紙のごとく、井上像の輪郭が浮かび上がってくる。井上自身は著者に、「感覚」という言葉を幾度も口にしている。
登場するボクサーたちは敗者ではあるが、だれもが井上と闘ったことを自身の糧としていた。井上を描くための取材はやがて、敗北の意味を汲み取る旅へとなっていく。
佐野友樹は一〇ラウンドKOで敗れたが、一〇ラウンドまで逃げずに打ち合った。人を「感動」させる試合ができた。「本当にあの試合をやって良かったな」と思うのだ。現役引退後、「納棺師」の仕事にたずさわりつつ、ジムのトレーナーをつとめている。
ジェイソン・モロニー(オーストラリア)は井上戦での敗北があったが故に、その後、WBO世界バンタム級の王者になれたと語っている。
田口良一はWBA世界ライトフライ級の王座を七度防衛した。若き日、日本タイトル戦で井上と対戦し、判定で敗れたが、ダウンを喫しなかったボクサーとしても語り継がれていく。そのことが自身を支え続けてきたという。
著者の、ボクサーという存在への共感をともなったやわらかい視線が、本書を、怪物の物語と同じ比重で、〈良き敗者(グッドルーザー)〉たちの物語としている。