『楊花の歌』
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暗殺計画と危険な恋の行方 新人離れした筆力と構成力の秘密は
[レビュアー] 瀧井朝世(ライター)
昨年、第35回小説すばる新人賞を受賞した青波杏の『楊花の歌』は、戦時下の女性スパイの物語が思わぬ方向へ展開する読み応えたっぷりなエンターテインメント作品だ。
1941年、日本占領下の中国は福建省、廈門。カフェーで女給として働く日本人女性、リリーは裏で抗日側の諜報活動に協力している。日本軍諜報員の暗殺指令を受けた彼女は、狙撃手として紹介された女性、ヤンファと恋に落ちてしまう。
前半では暗殺決行に至るまでの日々が描かれるなか、女給たちの人間模様も綴られていく。中国や朝鮮出身などの出自も、日本や日本人に対する思いもそれぞれで、リリーと彼女たちとの関係でも読ませる。リリー自身には、東京の裕福な家庭に生まれ女学校にも通っていたが、実家が傾き流れに流れてこの地に来たという経緯がある。一時期は遊郭にもいたが、その過去を誰にも言えない。同時に、リリーはヤンファも経歴を偽っていると確信している。辛い過去を胸に抱き、組織の諜報活動に利用される女性たちを待ち受ける運命は―。
亜熱帯の街の空気感、食や風俗などの描写が非常に丁寧。また、当時の国家情勢などもさりげなく盛り込まれて分かりやすい。やがて物語は台湾へと舞台を移すが、そこでは当時日本の植民地だったこの地の過酷な歴史が浮かび上がる。廈門と台湾、別個に見えたふたつの物語が意外な形で結びつく終盤は胸が熱くなる。
暗殺計画と危険な恋を題材にしたスリリングなスパイ小説に留まらず、女性や弱者に対する搾取の問題、戦時下の個々人の苦しみと葛藤を突き付けてくる本作。新人離れした筆力と構成力で魅了する著者は、長年にわたり遊郭の労働問題などの女性史を研究してきた学者であり、一時期、廈門で日本語教師をしていた経験もあるという。語られることの少ない歴史に目を向ける書き手の、今後の創作活動が楽しみである。