癒やされぬ傷跡が描き出される「震災後文学」

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癒やされぬ傷跡が描き出される「震災後文学」

[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)


新潮2022年12月号

「震災後文学」という呼び方がある。東日本大震災および福島第一原発事故“以後”という認識の下に書かれた小説などのことだ。

 仙台在住の作家・佐藤厚志の「荒地の家族」(新潮12月号)は、10年という節目の先を意識した震災後文学である。造園業を営む坂井祐治が主人公。祐治は独立直後に震災に見舞われ、妻も病で失った。流産が原因で二番目の妻とも別れ、最初の妻との息子である啓太と二人、母の世話になりつつ暮らしている。

 家族と生活を立て直し、啓太を健やかに育てなければと祐治はもがくが、「動けば動くほど深い沼にずぶずぶ沈んでいく」無力感や、「海は必ずまた膨張する」との諦観に囚われて抜け出せない。10年を経ても癒やされない傷跡が、海辺の景色の変貌や、身を持ち崩し自殺する幼馴染みの男の影と重ねて描き出される。

 島口大樹「光の痕」(文學界12月号)も、鬱屈を抱えた少年を描いた作品だ。

 寂れた漁港町で暮らす主人公の章は、先天性色覚異常のせいで疎外感を抱えている。章が8歳のとき、父の暴力が原因で母がいなくなり、直後に父も、暴力沙汰で逮捕され姿を消した。章は古い旅館を営む祖母に引き取られたが、彼は祖母からも疎まれている。

 そんな章にも、世界と繋がる感触を得られることが二つあった。一つは写真、もう一つは暴力だ。

「はじめて自分の見え方が、他人の見え方と重なる気がした。その通路が開けた気がした」

「連絡とは呼べぬ皮膚と皮膚の接触、刹那の交感は次の瞬間には途切れ、それでも相手の気持ちが痛みが手に取るようにわかる。虚しいまでに共鳴する」

 写真を仕事にしたいと密かに思っていたにもかかわらず、舞い戻った父に悪事をそそのかされ、章は、暴力を金に換えるという破滅的な方向へ流れていく。

 質的にも拮抗した二作だが、一点、明白な違いがある。それは当事者性だ。

 当事者性の濃淡で小説を判断するのはどうかと思いながら、ポリティカル・コレクトネスや震災後という状況にいる我々にとって、そうした判断から自由でいることはもはや困難なのだ。

新潮社 週刊新潮
2022年12月15日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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