心に傷を負った女性の再生を新印象派を思わせるタッチで描く
[レビュアー] 蜂谷涼(作家)
磯の匂いや、栗の花やトマトやカレーの匂いが、文章から立ち上ってくる。そこに書かれていなくても、光の粒を孕んだ風に首筋を撫でられた気がする。
第8回エネルギーフォーラム小説賞の受賞作だけあって、本書は豊かな自然描写で、冒頭から至極さりげなく読者を作品世界に招き入れる。
主人公の美波は、五歳の一人息子をもつシングルマザーで、二週間前に東京から北海道の南部に位置する港町に引っ越してきた。コンビニは遠く、レストランもショッピングセンターも映画館もレンタルビデオ店も書店もない静かな町で、砂が落ちていくように滞りなく生きていくことだけを望んでいた。
美波は東京で癒しがたいほど深い傷を心に負い、身体にも、ダメージを受けた。人生を根底から揺るがす出来事に見舞われたのだ。従って、物語が始まって以降は、さして大きな事件は起こらない。どんでん返し的な展開もみられない。
それでもページをめくる手は止まらなかった。美波が再生に向けて歩き出そうとするまでの過程が、繊細かつ丹念に紡がれているからだ。その描き方は、新印象派の点描画を思わせる。
息子の優吾は、台詞も仕草も表情もリアルで物語を鮮やかに彩っているし、美波の親友や妹をはじめ脇を固める人々は、効果的な差し色となって作品に奥行きを与えている。
キーパーソンである大久保さんは、当然ながら、味わい深い色合いで読者を魅了する。美波の隣人で町の子供からエジソンと呼ばれる男性だ。エシカルだのサステナブルだのSDGsだのと小賢しい御託を並べたりせずに、大久保さんは、ひたすら謙虚に自然と向き合って、丁寧に暮らしている。武骨で頑固なところもあるけれど、春の陽ざしにも似た暖かさで美波と優吾に寄り添っていく。
「逃げることも、必要なときがある。常に闘っていたら、身がもたない」とか「自分の人生を少し無駄に使ったくらいで、誰も文句は言わない」という彼の言葉には、多くの読者が美波と同様に救われるはずだ。
本書では研ぎ澄まされた感性や瑞々しい表現が随所に光る。また、各章のタイトルになっているなぞなぞが、意外な役割を果たすのも、心憎い仕掛けといえるだろう。
著者は「新潮講座札幌教室」で小説の腕を磨いた。受講時に膨らんだ蕾が本書で大きく開花したのだ。今後は、さらに大輪の花を咲かせ、数々の実を結ばせるに違いない。