『時代小説の戦後史』
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作家に抱く感情について
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
『眠狂四郎』『柳生武芸帳』『魔界転生』『死ぬことと見つけたり』など、名作の誕生秘話と作家の実像を解き明かした選書『時代小説の戦後史―柴田錬三郎から隆慶一郎まで―』が刊行。本作の刊行を機に、文芸評論家として作品を読み、多くの作家と接してきた作者の縄田一男が、思い出に残る交流を語った。
縄田一男・評「作家に抱く感情について」
久々の自著『時代小説の戦後史』のゲラを読みながら、私は自分の評論家としての資質を何度も問い糺さずにはいられなかった。
評論家という生き物は、所詮、対象の作品を論じつつ、自分を語っている――これは良くいわれることだが、つくづく思うのは、自分は感情の生き物だ、というこの一事である。
評論は、客観性を旨とするのは鉄則だが、私の場合、常に自分の中に張りめぐらされた情の回路がこれを邪魔する。
つまり何をいいたいのかというと作家に対する愛情が強すぎるのだ。
たとえば本書で柴田錬三郎を論じた章では、その最後の箇所、戦中派の柴錬が、戦後生まれた若い世代に対して、どう戦争責任を取り続けたか――それを記したゲラを読みながら、この偽悪家のポーズを取り続けた善意の作家がどのような生を送ったか。それを思うと涙が次から次へとあふれて作業を止めざるを得なかった。
自分が出した結論に対して涙していては世話はないが、少なくとも私は自らがそのように思えたことしか書かなかった。それが間違っていたか正しいかは神のみぞ知るだが、同じような感情の高ぶりは、ゲラを読みながら随所で起こった。
が、五味康祐の場合は、その数奇な人生故に涙を流すことさえ許されなかったと思う。思い起こせば、五味の取材をしていていちばん嬉しかったのは、この作家の育ての親ともいうべき編集者、斎藤十一さんのお宅を訪ねたときに起こった。
恐いもの知らずの私は、斎藤さんに、五味の作品における、彼が私淑する日本浪曼派の詩人、伊東静雄の影響を語るや、ニヤッと笑われて、
「君の方がよく知っているじゃないか」
と、いってしばらくして「この本に五味のことが書いてあるから」と、五味の恩師、保田與重郎の『現代畸人傳』を下さったではないか。
どうか、五味が贖罪の思いをこめて放った二短篇「自日没」と「火術師」が、『柳生武芸帳』と同等の地位を得られますように。
そして忘れられないのが、山田風太郎である。
風太郎さんについては、生前、何度も自宅にお邪魔し、私が結婚した際には家内ともどもごあいさつに伺ったことがある。
そのとき、家内がサインをねだり、名前をいうと、
「えーと、上の姓は?」
といわれてびっくりしたことがある。
その飄々とした人柄に魅かれて図々しくお近づきになったのだが、さまざまお話を伺っているときにも風太郎さんは、自分を論じるに際して、色々とヒントを与えてくれていたのだ。
あるときは、
「ぼくはモームが好きでね」
といわれたが、それもとても「好き」などというレベルとは違う、もっと切実な魂の叫びだったのではあるまいか。
風太郎さんは幼い頃に父を、思春期に母を喪っているが、モームの自伝的長篇『人間の絆』を読むと、モームが風太郎さんとまったく同じ経緯で両親を喪っていることがわかる。
どんな思いでこの小説のページを繰ったのか。そしてこの小説の発端を読んだとき、どんな衝撃が、この鬼才の胸中をはしったのであろうか。
それはとても「好き」などという生易しいものではなかったはずである。
そして幸福な家庭を得たにもかかわらず、風太郎さんは、ひとたび筆を執るや、「私の一生はこの時期(思春期)に母を亡くしたがため、生涯不幸であった」と書き続けたのである。
最後に隆慶一郎――。私は隆さんが生命のほむらを懸命に燃やし続けて、あと一ヵ月で亡くなるというとき、辛うじてお会いすることができた。その縁で追悼文を書く機会があったが、そのとき「お前の文章は泣き濡れている。読む方はそういう追悼文に接して鼻白むものだ」と随分叱られた。
だが、もう本当のことを書いてもいいだろう。「私は自分の寿命の五年や十年、さしあげても隆さんに長生きして作品を書いてもらいたかった」と書きたかったのである。
私がこの四人の作家にぶつけた感情の発露が、どのような具現化を見せたのか、後は読者の判断を待つしかあるまい。