『躁鬱大学』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
騒々しい一冊
[レビュアー] 信田さよ子(原宿カウンセリングセンター顧問、臨床心理士)
双極性障害(躁鬱病)に長年苦しんできた坂口恭平氏が、自らの経験をもとに「気分の浮き沈み」との付き合い方を綴った本『躁鬱大学』。多分野で活躍する坂口氏が独自に導き出したメソッドは、果たして専門家の目から見て、理にかなったものなのか? カウンセラーとして数多くの患者と向き合ってきた信田さよ子氏に読んでもらいました。
***
みずからを躁鬱人と名づける著者だが、これまで直接会ったことはない。勝手に熊本の畑に行けば会える知人みたいに思っている。これまで数冊の著書を読んできたが、Twitterのフォロワーのひとりとして、毎日流れてくるツイートやいのっちの電話の活動に注目している。死にたいんですというひとに10年間携帯の電話番号を公開しつづけ、ひとりひとりに応対するという離れ業に感心する。鬱の再発が起きない日数が記録更新していることを知り、よかったね、と心から言いたくなる。パステル画のすばらしさに心躍らせ、高額なパステルも購入し画集まで買ってしまった。
書評を書くつもりが、著者である坂口恭平という存在についてこうやってどんどん語りたくなるのはなぜだろう。
同じ苦しみを抱える躁鬱人のために、医療や薬に頼らなくてもいいように、著者は躁鬱大学を開講した。たぶん精神科医療に嫌気がさしていたはずなのに、唯一の例外である精神科医の神田橋條治を発見する。彼をソクラテスに例え自分をプラトンの位置に置くことで、躁鬱の体験を自由闊達に語るという装置が、本書の構成の大きなポイントになっている。
読み進むうちにこれはアディクション(依存症)の回復について書かれているのではないかという錯覚に陥った。日課をルーティンのようにこなす、ひとりになってはいけない、浅く広く人とつきあう、つきつめない、自分をみつめない、一日ずつ積み重ねる……これらは私が40年近くかかわってきたアディクション臨床のなかで当たり前のように共有されてきたことだ。それが躁鬱大学の講義で語られていることにびっくりしたが、よく考えてみれば深く合点がいく。
自分ではどうしようもない気分の波を平準化させるために酒を飲み薬物を使用する、その結果依存症になった人は多い。そこから回復するためには、アディクションをやめるしかない。まるで羽織っていたアディクションというコートを脱ぎ捨て、コート無しで生きるように、それは隠れていた傷つきやすい躁鬱人が外気にさらされることを意味する。アディクションからの回復は、もうひとつの地獄なのである。
書評者である私はカウンセラー(公認心理師・臨床心理士)なので、診断・治療・処方といった医行為とは無縁である。だから病名にはほとんど関心がない。○○障害という診断名をいちども使用することなく、30年近くカウンセリングを実施してきた。しかし唯一の例外がアディクションである。
そもそもアディクションは病気かどうかもあやしい。酒や薬をやめさせる確実な方法はないが、当事者(依存症本人)たちの自助グループが大きな役割を果たしてきたことは世界中の専門家が認めている。そのせいかどうか、残念ながら今でもアディクションに取り組みたいという医師は少ない。
アディクションの自助グループでは「仲間」が何より大切だ。専門家の言うことは眉唾だと思っても、先ゆく仲間の経験には耳を傾ける。ある依存症者はこう言った。アディクションの玄人は私たちだと。言い換えれば「専門家は素人」なのだ。躁鬱人である著者は、躁鬱の玄人だ。素人が書いた数々の「専門書」にしびれを切らし、多くの仲間に向かって自らの経験を惜しげもなく開示した一冊だといえよう。
アディクションの再発のリスクはいくつかあるが、「ひとりになること」、つまり孤独は危ないと言われている。つきつめたり、自己反省したりすることも危ない。努力したり頑張ることも危ない。いつも仲間とともに、他者に話すことで考えることが再発を防ぐとも言われる。著者も、数人の安全なひとたちと話しながら、「人とつきあうことは薬の何万倍も効くのです」と断定する。
いっぽうで、若手のビジネスパーソンが金科玉条のように口にする、モチベーションを高める、ソリューションを探る、スキルを向上させる、コーピングの糸口をみつけるといった言葉が、いかに躁鬱人にとって危険かもよくわかる。高学歴、外資系のIT・金融関係の職業に就く人たち(男女を問わない)は、徹頭徹尾無駄を省き、否定的感情を削ぎ落してマニュアル通りに不自然な発声法で語る。その姿はグローバルなビジネスパーソンのロボット化を表しているのではないか。
就職時のエントリーシートの無意味さに始まり、効率とマニュアル化に支配された仕事に就くことが、どれほどアディクション、ひいては躁鬱と親和性が高いかを本書は逆照射している。
さて、こんな美しいまとめに収まらないのが本書のおもしろいところだ。一言でいうと、本書はとても騒々しい。読み終わったあとでなんともいえないざわざわ感が残る。
試行錯誤の末に仲間に向かって自分の経験を伝える著者の姿と、この騒々しさとは表裏一体だ。ありあまる言葉と感覚、そして坂道をアップダウンするような文体、パステル画の深い青とが、本書の中に幾重にも織り込まれている。とりあえず彼が到達した楽に生きるスタイルそのものが、文章のあちこちで飛び跳ねているようだ。統一や構成、一貫性といった既成の著述スタイルを壊しているので、読み始めをどこにするかはあまり関係ない。しかし、生きていることが死と隣り合わせであるという切実感もが、あの文体から同時に伝わってくる。
再びアディクションに話を戻せば、自助グループでの語りの多くは死と隣り合っている。参加者の多くは時には泣き、時には笑いながら語る。笑うしかないかのように語る。それを聞いていると、依存症本人ではない素人である私も笑ってしまう。笑いながら、残余のない世界のシンプルさに一瞬だけど漬かることができる。本書の騒々しさとざわざわ感は、著者の住まう世界の残余のなさ、ぎりぎりの地平と、読者である私の生きる世界との落差によっても、もたらされるのではないか。
冒頭で述べた、著者について語りたくなってしまうのは、そういう理由かもしれない。躁鬱人の仲間に向けた熱いメッセージに見えて、そこから湧き上がるのはマグマのような予測不能なエネルギーをはらんだ著者の姿だ。時折小爆発を繰り返す阿蘇山にそっくりだ。躁鬱についての講義の向こうに、まるで金太郎あめのように、どこを切っても坂口恭平の姿が顔を出す。