檀一雄長女・檀ふみ×新田次郎次男・藤原正彦×阿川弘之長女・阿川佐和子 創刊600号記念座談会 文士の子ども被害者の会〈前篇〉
[文] 新潮社
今日は自慢話を聞く会である
檀 お父さまに叱られたことはおありですか?
藤原 父に叱られたのは、小学校低学年の時、どこかの置物屋さんの店前に、小さな置物を大量に道端に捨てたみたいに重ねてあったんです。それを私は捨てられたものと思い、一つ持って帰ってきた。そしたら夕飯の時に、「それどうしたんだ? 百パーセント捨てたものかどうかわからないじゃないか。すぐ戻してこい!」って激怒されたことがあります。これ、父が同じことをやっていたんですよ。上諏訪ってあるでしょう?
阿川 はい、長野県の。
藤原 駅からさらに四キロも山へ入ったところに父の実家があります。父が八歳くらいの時、夕方の上諏訪で火事があって、山道を往復八キロ駆けて見に行った。見た証拠にと、父は焼けた木を持って帰ってきたんですね。そしたら父の祖父、私の曾祖父が江戸末期の生まれで武士なんです。父に武士道の教育をした人ですが、「絶対に焼け跡から物を持ってきちゃいかん。火事場泥棒というのは泥棒の中でも最も恥ずべきことだ。死んでもやっちゃいかん。直ちに置いてこい!」と烈火のごとく叱った。まだ小さかった父は真っ暗な山の夜道を歩いて返しに戻ったそうです。
阿川 父子で同じことをなさったわけですね。でも、その程度なんですか、叱られたこと?
藤原 ええ、父はあんまり怒らなかったですよ。
阿川 (檀さんに)いやあね、本当に。
檀 なんか全然、被害者じゃない(会場笑)。
藤原 被害者ですとも。最近、私、「お父さんによく似てきた」とか「年々どんどん似てくる」とか、もっとひどいと「瓜二つね」とか言われるようになったんです。
檀 容姿のことですか。
藤原 容姿です。父の遺伝子の被害者です。ご存じのとおり、父はひどい顔で。
檀 いや、そんなことなかったですよ。
藤原 私はもっとセクシーでしょ?(会場笑)
私がミシガン大学で教えている時、父が『アラスカ物語』の取材にアラスカへ行った帰途、ミシガンへ寄ってくれたんです。空港まで迎えに行くと、コンコースのずっと向こうから、足の長さが身長の四分の一ぐらいしかない生き物がお腹を振って歩いてきた。(あ、近くの山のタヌキか)と思っていたら、それが近づいてきて父とわかった時の衝撃はなかった。その時は既に一年くらいアメリカにいて、自分がアメリカ人になり切っていたんですね。アメリカ娘にモテまくって、当時「オリエンタル・プレイボーイ」と仇名されていたくらいです。そこへ父の姿を突き付けられて、これが血を分けた肉親だと思い知って本当にショックでした。
阿川 そのときすでに、自分はお父さまに似ているという自覚はおありだったんですね。
藤原 その時は全然ありません。私は突然変異だとずっと思っていますからね。頭脳や才能はともかく、顔だけは父とも母ともまったく違うと思って、絶大な自信があるんです。ところが最近、やたらと「どんどん似てくる」「瓜二つ」って、本当に心外。
檀 お話を伺っていると、だんだん藤原さんのお子さんが「文士の子ども被害者の会」に入ったほうがいいんじゃないかしらと思えてきました(会場笑)。
阿川 藤原家は息子さんばかり?
藤原 でくの坊三人です。女の子も欲しかったので、四人目は女の子を産んでくれって女房に頼んだら、「外で勝手に産んで」と拒否されました。
阿川 外ではお作りにならなかった?
藤原 あ、ざ、残念なが……。
阿川 そんなに動揺なさらなくても(会場笑)。
藤原 いやいや。水上勉さんみたく、老境に入ってから見知らぬ中年の男が「お父さん」なんて出てくれば、それは勲章だと思うんだけれど、今のところ出てきそうもないです。もし出てくるとしたらアメリカからですかね。
阿川 よっぽど、あちらでモテたと言いたいらしい。
藤原 アメリカの女性には、近づいてくる男はいつも自分の肉体目当てに寄って来ているに違いないという警戒心があるんです。だから、まずその武装を解除しないといけない。私はユーモアで一気に笑わせて武装解除するんです。
阿川 そこで押し倒すんですか。
藤原 ええ。それと僕、体臭がきついんです。
檀 何を突然。
阿川 まさか、ここで嗅いでみろと?(会場笑)
藤原 それがアメリカの女性にはたまらなくセクシーな芳香のようなんですね。彼女たちにすれば、たいへんなフェロモンが私から滔々と流れ出している状態。だから、向うではたいへんなモテ方でした。帰国時にはアメリカから女性が私を日本まで追いかけてきたり……。体臭のおかげです。
檀 あら、「舞姫」みたい。
藤原 父からはある時、「結婚するまでは俺もおまえの兄貴もみんな童貞だった。おまえだけだ、不潔なのは」と言われました。
阿川 えー、今日は被害ではなく、自慢話を聞く会になっております(会場笑)。
檀 確かに藤原さんの場合は被害者というより……いま伺っていても、新田次郎さんっていい方みたいじゃないですか。佐和子さんのお父ちゃまとか、うちの父とかとはちょっと違う感じがしますね。これは男の子だからですかね。
藤原 僕、中高でサッカーをやって、「西の釜本、東の藤原」というのは家族の者はみんな知っていました。家族以外は誰も知らなかったけど。僕は学芸大附属小金井中学校にいて、附属大泉中学校へ試合に行ったら、檀太郎さんがいました。
阿川 ああ、ふみさんのお兄さん。
藤原 チームメイトが「あいつ、檀太郎っていうんだ。檀一雄の息子だよ」って。すごく体大きかったですよ。
檀 まあ、大男、大女の家系ですから。うちの兄、サッカーやってました? ちっとも知らなかった。
藤原 で、僕は都立西高でまたサッカー部に入って、早稲田高等学院へ試合に行ったら、今度はそこのセンターフォワードが石川達三さんの息子。作家の息子はみんなサッカーをやるんだなあと思った。
阿川 うちは兄弟三人いるけど、サッカーやるのは一人もいない。
檀 「檀さんのお父さんはサッカーやってらしたんですね」って、中国人のマッサージの先生が勘違いしてたことはある。
阿川 ああ、作家とサッカーね。うちの父も何かの賞をもらってニュースが流れた時、末弟の友人が聞き間違えて、「アガワのお父さん、サッカー選手だったの?」と言ったそうですよ。
檀 新田さんは原稿が書けなくて荒れるとか、そんなことは?
藤原 それは苦しそうでした。やはり父は武士ですから、荒れたり八つ当たりしたりするよりは、忍耐型でした。だけど、よほど苦しい時もあったのでしょう。太宰治とか三島由紀夫とか川端康成とか、いろんな作家が自殺しますよね。その理由について世間はさまざまなことを言いますが、父は断言していました。「書けなくなったからだ。作家が自殺する理由はそれ以外に絶対ない」。
阿川・檀 はぁー。
藤原 父が亡くなってから書斎を調べたら、大きな茶封筒いっぱいに原稿が入っていて、表に「書いても書いても突き返された時代の原稿」と書いてありました。デビューしてからしばらくは書いても書いてもボツになっていたようです。とくに新潮社が一番多かった。
阿川 新潮社にいっぱい突き返された!
藤原 そう。新潮社にボツにされた原稿が山になって残っていました。
阿川 偉かったんですよね、昔の編集者って。
藤原 みんなそうやって苦労してきたんですよね。ただ、父は誰にこぼすわけでもなく、荒れるでもなく、じっと我慢していました。没後にボツ原稿の山を見つけて吃驚したくらいだから、家族にも言わなかった。
阿川 そんな父の恨みがありながら、「週刊新潮」で長く連載したり、新潮社でよくお仕事されるのは武士道?
藤原 そうですね。いつもかわいい女性編集者がついてくれて。
阿川 それは別に武士道ではなかろう(会場笑)。
檀 新田さんは家族に当たり散らさなかったけど、佐和子ちゃんのお父さまは大変だったんでしょ?
阿川 うちはもう常に機嫌が悪いですから。父の書斎の前にお手洗いがあったんですけど、その戸がガチャッと開く音だけでもう「誰が行ったんだ! 俺が行こうと思ってたのに!」って。だからお手洗いもコソコソ。家が狭かったから逃れようもなかったです。
藤原 でも、その気持ちは、佐和子さんもお書きになる人だからわかるんじゃないですか? 書けない時に当たり散らしたい気持ちはありますよね。
檀 だから今、佐和子さんが「小弘之」と呼ばれてるらしいです。
阿川 一番かわいそうなのは母でしたね。大弘之と小弘之の間に挟まれて。
藤原 阿川尚之さんは穏やかな方ですよね。
檀 佐和子さんのお兄さまね。
阿川 兄も外ヅラ仮面ですよ。四人きょうだいで「おまえが一番お父ちゃんに似てる」って、みんなでなすりつけあうんです。でもまあ、みんなそれぞれ似てますね。
藤原 尚之さんとは何度かお会いしたけど、お父さんに似て英国紳士ふうですね。お二人とも英国大好きですよね。
阿川 アメリカもイギリスも大好きです。カブレてるとも言える。
檀一雄さんは書けないからイライラ、というのはなかったの?
檀 それはもちろんありました。でも、あの……うちはけっこう広かったんですよ。
阿川 あ、はいはい。今日は自慢話大会ね(会場笑)。
檀 書斎を作るのが趣味なくらい、自宅以外にもたくさん書斎を持ってたの。つまり、それは書けないから……。
阿川 転地療法をするわけ?
檀 そう。それで結局書けたかどうかは知らないけど。
藤原 ポルトガルにも書斎があったんじゃないですか?
檀 サンタ・クルスって町です。
藤原 父の絶筆となった『孤愁』を書き継ぐため、ポルトガルへ取材に行った時、そこに寄ったことがあります。石碑があって檀一雄さんの「落日を拾ひに行かむ海の果」という句が彫ってありました。なぜかその時の私の琴線に触れ涙ぐんでしまいました。檀一雄さんはあそこに一年半もいたのですね。
檀 ええ、各地で原稿を書いていましたね。
阿川 じゃ、お家で書いている姿というのは?
檀 書いている姿を直接見たことはありません。でも時々、書けなくてお手洗いなんかへ出てくる時の、もう鬼のような形相は何回か見ています。私はもう大きくなっていたので、ここは触っちゃいけないところだと思って、自分の気配を消していました。
阿川 檀さんのお家は大きいでしょうけど、家族も多いでしょ?
檀 藤原さんがサッカーの試合で一緒になった一番上の兄の太郎は早くに結婚して家を出て、二番目の兄はずっと寝たきりでしたけど、やはり早く亡くなりました。残った三きょうだい、すぐ上の兄と私と妹はひとつの部屋に押し込められていましたね。たくさん部屋がある大きなうちでしたけども、子どもの部屋は小っちゃかったの。
阿川 お父さまは『檀流クッキング』という名著があるくらい、料理も大変お得意で、だからふみさんはものすごく料理の作り方に詳しいんですよ。
藤原 太郎さんは料理の専門家ですしね。
阿川 ふみさんは、作り方は完璧に知っているけど、自分で一から最後まで作ったことがない、という時代が長かったわよね。
檀 というのは、父の手伝いしかやっていませんから。例えば「ごまを擂るから擂り鉢を押さえなさい」と言われて、ずーっと押さえてるとか、ずーっとおかかを削るとか、切り干し大根を切り続けるとか、玉ねぎを炒めるとか、そういうことしかやってきてなかったんです。父が元帥で、私たち子どもは三等兵って呼ばれていました。
藤原 軍人将棋みたい(会場笑)。
檀 あとは、片付けとお皿洗い。お米をとぐのもやらせてもらえなかった。
阿川 え、三等兵はそれはまだ?
檀 三等兵にはお米はまだ早いの(会場笑)。
阿川 いくつからやらされたんですか。
檀 生まれてからずっとやらされていたんじゃないかしら。気がついたときにはもう擂り鉢を持っていましたから。
阿川 お客さまをお招きするとなると、お父さまは最上級の料理を作ろうと思って、最良の材料を求めて北海道なら北海道まで出かけて二、三日帰ってこなかったという話がありますね。
檀 そういう伝説は聞いていますけど、私はそれは知らないの。よくそういうことを仰る方がいらっしゃるので、実際にあったことかもしれないなと思います。
阿川 それだけ食事を大事にしていらしたから、子どもが好き嫌いを言うなんてことは断固許さなかったんでしょ?
檀 もちろんです。藤原さんのお宅はいかがでした?
藤原 兄はネギが食べられなかったんですが、そしたら母が「乃木大将はやっぱりネギが嫌いだった」と。
檀 乃木大将?(会場笑) すごく古くないですか?
藤原 母は古いんです。「乃木大将のお母さんは毎日ネギしかあげなかった」って、ネギばかり出してました。そういう点、父より母が厳しかった。
檀 そうか、藤原ていさんも作家ですからね、それも文士の子どもの受けた被害かもしれない。
(以下次号)