『幼年 水の町』
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深川で生まれ育った詩人が幼年の「わたし」と対峙する
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
水の町・深川に生まれ暮らした詩人が、幼年期を振りかえる。回想記と呼んで構わないが、どこかちがうような気もする。
回想するとは、過去の事象に望遠鏡をむけるようなものだ。レンズの魔力で小さな情景や忘れかけていた人物が、拡大されて目前に迫ってくる。でも、望遠鏡を置けば距離は隔たり、遠ざかる。回想されたものたちの居場所は「現在」にはないから、甘やかな時間が終われば去っていくのが道理である。
ところが、ここに描かれている人や出来事は、去っていく気配がない。むしろ思いだされて生き返り、いまに侵入してくるかのよう。過去にけりをつけるのではなく、それらがいまも自分のなかを流れているのを確かめたいがために書いているような雰囲気が、文章ぜんたいを覆っているからかもしれない。
美少女をスケッチするのが好きな美術教師、音読を求められるとしくしくと泣き出す中村さん、よく人にだまされる隙間だらけの祖母、いじけて、全体がどす黒く、いじめられっ子の林さん。どの人も「わたし」のなかに潜む生々しい感情を引き出していく。まぶしいほどの威力で心の扉をこじ開けていく。
そういう人たちのことを、透明人間のようにただ見ていたのが当時の「わたし」だった。無口で、内向的で、何も表現しない子供だった。
だが、見つめるしか方法をもたなかった幼年の「わたし」にむかって著者は言う。「小さな詩人と呼んでもいいような気がする」と。
世界と自分のあいだに夾雑物がなく、むきだしの状態で立っていたあの頃、孤独だったが、寂しくはなかった。除外されても疎外感はなかった。詩の畑はその孤独のなかにあったのかもしれない。そこを掘りおこして苗を植えるのが詩作の行為なのかもしれない。その畑の収穫物として、ほぼ同時刊行の詩集『野笑 Noemi』(澪標)もお勧めしたい。