大矢博子の推し活読書クラブ
2024/07/31

水川あさみ、櫻井翔、玉山鉄二出演「笑うマトリョーシカ」あまりに違う構成にびっくり! 原作は時系列、ドラマは過去を回想で 展開の速さや疾走感に納得も削ぎ落とされた魅力をぜひ原作で!

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 推しが演じるあの役は、原作ではどんなふうに描かれてる? ドラマや映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回は先の見えないサスペンスに翻弄されるこのドラマだ!

■水川あさみ・主演、櫻井翔・出演!「笑うマトリョーシカ」(TBS・2024)

 わあ、初回からぜんぜん違う! あまりに違うので、まずはドラマと原作、それぞれの導入部を別々に紹介しよう。

 ドラマは新聞記者・道上香苗(水川あさみ)を中心に進む。43歳の若さで入閣した衆議院議員・清家一郎(櫻井翔)の自叙伝について取材するため松山市の母校を訪ねた道上は、清家の秘書・鈴木俊哉(玉山鉄二)が高校時代から清家の親友だったと知る。それほどの付き合いの鈴木をなぜ自叙伝に登場させなかったのか? それを調べようとした矢先、道上の父(渡辺いっけい)が交通事故死。父は鈴木の父が昔かかわった汚職事件を追跡取材しており、その日、鈴木と会う約束をしていた。それを知った道上は、鈴木が手を回したのではと疑う──。

 一方、早見和真の原作小説『笑うマトリョーシカ』(文春文庫)は、記者の道上が清家のもとに自叙伝の取材に来るというプロローグのあと、3部構成に入る。第1部では清家と鈴木の高校時代が、第2部では大学時代が、鈴木の視点と清家の自叙伝からの抜粋で綴られる。そして第3部でプロローグの「現代」に戻り、道上が誰からか送られてきた清家の卒論を起点に、彼らの謎を追うという構成になっているのだ。つまり、ドラマの主人公の道上は、原作ではプロローグを除けば中盤以降にようやく登場するのである。

 ドラマは、原作のこの第3部から始まり、第1部と第2部を回想という形で入れ込んでいる。ドラマでは序盤で清家の卒論が送られてきたり鈴木が交通事故に巻き込まれたり、道上が清家の恩師や亡き議員の元政策秘書らに会ったりするが、これらは原作では後半のエピソードだ。そのため原作既読組にとっては展開が非常に速く感じられるのだが、よく見ると流れ自体は原作に沿っているのである。

 原作とドラマで明確に異なるのは、水川あさみ演じる道上香苗の設定だ。離婚しているとか息子がいるとか、母が小料理屋をやっているとか、過去に苛烈な取材で取材対象を追い込んだことがあるとか、ましてや父が殺されたかもしれないとか、そういった彼女の個人的な背景はすべてドラマオリジナルで原作には出てこない。原作の道上は情報を整理して読者に届ける役割に徹している。


イラスト・タテノカズヒロ

■小説とドラマ、構成の違いで変わる印象

 もうひとり、原作とキャラクターが微妙に違う人物がいるのだが、それは後述。まず、高校、大学、政治家になってからとほぼ時系列で語られる原作と、現在に始まって過去が挟まれるドラマという構成の違いによって、受ける印象がかなり違うと言っておかねばならない。

 高校時代の清家、鈴木、そしてもうひとりの仲間・佐々木光一(ドラマでは成人後を渡辺大が演じている)の物語は、まさにエリート高校生たちの青春小説!といった感じ。純粋すぎる清家。そんな清家に光るものを感じて自分が彼を生徒会長にしてやろうと考える鈴木。ムードメーカーで豪放磊落な佐々木。三人の出会いや、そこからの関係の変化など、頭の良い男子が策略を練って目標を実現させていく様子はワクワクするやらゾクゾクするやら可愛いやら。

 だがここに、ちょっと不気味な要素が入ってくる。清家一郎の造形だ。高校生の男子にしては幼すぎるし、素直すぎる。鈴木に全幅の信頼を寄せ、鈴木の言うことに疑問を持たずにすべて受け入れ、鈴木の思い通りに行動する。大学時代には恋人ができるが、その恋人も言いなりになる清家に支配欲を煽られる。すべてを鈴木がコントロールするその関係は清家が政治家になってからも続くのだが、なぜこんな、まるで自我を持たないような青年が出来上がってしまったのか? それこそが物語の鍵だ。その上で、本当に清家を支配しているのは誰なのかに迫るのが原作なのである。

 ところがドラマではこの過去編をぶつ切りにして回想という形にするので、清家の異質さも、鈴木の賢さも、視聴者の中に積み上がらない。逆に、回想の断片が、「今、何が起きているのか。その発端はどこにあるのか」のヒントが後出しで出てくるように作られている。

 たとえば、キーパーソンである清家の母親・浩子は原作では第1部から思わせぶりに出てくるが、ドラマで高岡早紀演じる浩子が大きく扱われるのは第4話からだ。彼女の存在を知っているか知らないかで、エピソードの解釈は大きく変わる。伏線が多く仕込まれた過去を先に見せてしまうか、後から断片的に見せるか。物語の構成要素は同じなのに提示する順序を変えるだけで、読者(視聴者)はまったく異なるアプローチで物語を味わうことができる。小説とドラマ、どっちが先でも新鮮に楽しめるぞ。

■タイプの違う清家の異質さと、主人公格の鈴木を原作で!

 さて、前段で私は「もうひとり、原作とキャラクターが微妙に違う人物がいる」と書いたが、それが櫻井翔演じる清家一郎その人だ。ドラマの清家は自我がないどころか、何か腹に一物あるようにも見える。何か明確な意図があって、鈴木の知らないところで自分で決めて自分で行動しているように見える。
 
 これも原作の第3部になってからの清家が少しずつ、本当に少しずつ変わっていくのに併せているのだろう。しかし小説では第1部、第2部の清家の空っぽさがあまりに印象的なため、第3部からの変化がひときわ不穏に感じられるよう作られている。ドラマは時系列でない分、過去と比べての変化を感じ取れないのは少々残念。ここはぜひ原作で味わってほしい。

 原作通りの清家を演じる櫻井翔も見てみたかったなあ。原作にこんな一説がある。「政治家というものは、本性をひた隠し、世間に対して仮面をかぶり続けるものなのかもしれない。一流とされる政治家たちの多くが、きっとその本性を悟らせないよう努めているのは想像に難くない」──この「政治家」の部分を「アイドル」に変えても、この文章は成立する。そして長年トップアイドルとして君臨した櫻井翔が、仮面をかぶり続ける──しかもその本性は空っぽ──という役をどう演じるのか、とても楽しみだったのだけれど。ぜひ、原作を翔くんで脳内再生しつつお楽しみいただきたい。

 もうひとつ、原作ならではの面白さは、鈴木というキャラクターだ。魅力的なのに中身がなくて100%自分に依存してくるクラスメートを、自分の手腕で生徒会長に、のちには閣僚にまでプロデュースする──そういうマニピュレーター願望というのが最初はいかにも中2(高2だけど)的で、けれど依存されているつもりが依存していたり、支配しているつもりが支配されていたりという人間関係のリアルを何度も突きつけられる。万能感、そこからの転落、不安、そして再生。原作の主人公はむしろ鈴木と言っていい。

 ドラマが原作第3部から始まることで、展開の速さや疾走感など面白くなった箇所はもちろんある。が同時に、削ぎ落とされてしまった魅力も多い。その際たるものが、清家と鈴木の、若い時から壮年になるまでの細やかな変化だ。ドラマを見た人も、ぜひ原作でその変化を味わっていただきたい。おそらく「同じ話なのに別の物語」を読んでいるような気持ちになるはずだから。

大矢博子
書評家。著書に『クリスティを読む! ミステリの女王の名作入門講座』(東京創元社)、『歴史・時代小説 縦横無尽の読みくらべガイド』(文春文庫)、『読み出したらとまらない! 女子ミステリーマストリード100』(日経文芸文庫)など。名古屋を拠点にラジオでのブックナビゲーターや読書会主催などの活動もしている。

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