南沢奈央の読書日記
2024/07/12

新しい窓を探しに

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撮影:南沢奈央

 旅のはじまりに窓はつきものだ。
 歩きやバイクでない限り、乗り物に乗れば、かならず窓がある。車、電車、新幹線、飛行機。窓を覗き、流れる景色を見て、旅がはじまったことを実感する。
 飛行機で席が窓側だったとき、必ずと言っていいほど写真を撮ってしまうのはなぜだろう。もちろん景色が綺麗というときもあるけれど、離陸前だろうが、暗い曇り空だろうが、写真を撮ってしまう。見返しても、雲に覆われ、基本的にどのあたりの上空かわからない。
 でもわたしはたぶん、それでいいのだ。飛行機の窓の、あの景色を切り取ったような形に魅力を感じるのだ。まるで絵葉書のよう。あのフレームがあれば、どんな景色でも絵になりそうである。
 景色のない、地下鉄ですら窓がある。わたしは地下鉄の窓を見るのが好きだ。地下を走る窓の外は闇。だけど、だからこそ映る、乗り合わせた人々の様子。現実よりも、映った姿のほうが本物のような気がして、ついまじまじと見てしまう。窓という鏡ごしに、その曖昧な本物の姿を捉えようと、目をこらしているうちに次の駅へ到着し、現実に引き戻されるのだ。その幻想的な時間が流れる地下鉄の窓は、日常でも味わえる旅と言えるだろう。
 さらに、旅に出る前の家まで時を戻してみよう。するとやはり、そこでも窓を気にしている。部屋の窓が閉まっているか。鍵はかかっているか。この旅に出る前の、この儀式とも言える行為は、セキュリティー上の問題だけではない気がしてきた。
 それは旅の本質。
 いつもの窓を閉め、新たな窓に出会いに行くこと。

 旅ってそういうことなのかなぁ、と旅の達人の著書の前で失礼ながら考えた。
 沢木耕太郎さんがもちろん旅の達人であることはまちがいないのだが、『心の窓』を開いているあいだはそんなことは忘れていた。いつだって新しい窓から新しい景色を発見されている。純粋な目で捉えた景色は、すべてに新鮮な色彩がある。
 そして読者自身も、自由に自分の旅の記憶と行き来することができるのだ。
 冒頭の一篇はまさに、わたしも経験した場所だった。東京からフィンランドのヘルシンキへ向かう機内だ。2本の映画を観終えてふと窓のブラインドをあげたときに思いがけず出会った、美しい光景のことを綴っている。そこに、ご来光のような感動を覚えた夕日の写真が添えられている。その景色は、まるで自分がヘルシンキに向かっていたときに見たもののように、脳裏に焼き付いてしまった。
 500字ほどのちいさなエッセイと、一枚の写真。見開きで一篇が完結するつくりになっており、ページをめくるたびに景色が変わる。
 バリ島の稲田、パリのギャルソン、トリノの広場、ホーチミンの黒いマスク、ニューヨーク郊外の小さな駅、パクセーの食堂、台北の防波堤、ホノルルの虹、プノンペンの市場……。
 何気ないひと場面だったりするのだが、そこには「時」が凝縮されていた。
 81篇を一気に味わい、思った。こんなにたくさんの旅の記憶があるって、なんて豊かなことなのだろう、と。
 
 以前は、年に一度は海外ひとり旅をしていたのだが、コロナ禍で、そうしていたこともすっかり忘れてしまっていた。そのあいだにパスポートの期限は切れ、切れていることに気づいているのに作りに行く気も起こらず。ようやく、先月の母との韓国旅行が決まってから、作りに行ったのだった。
 もちろん、旅はパスポートがなくたってできる。日本国内でも、まだまだ行ってみたい場所、見てみたい景色はあるから。
 だけど、飛行機に乗って海を渡っていくこと。日常を、慣れた国を離れ、初めての場所へ。その時間は、窓で切り取られた景色のように、特別な絵葉書になって記憶に残るのだということを、思い出したのだった。
 パスポートはある。窓に出会いに行こうではないか。

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