『ピアノを尋ねて』
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<書評>『ピアノを尋ねて』クオ・チャンシェン 著
[レビュアー] 長谷部浩(演劇評論家)
◆人生の痛み 呼び覚ます音楽
魂を恍惚(こうこつ)とさせる音楽は、生まれたと思うと宙に舞って、観客の耳に届く。
音楽は、場所を占有しない。けれども、音楽を生むのは、演奏家と楽器である。巨大で重いスタインウェイのピアノや高価で希少なストラディバリウスのヴァイオリンがあって、はじめて自由きわまりない芸術が誕生する。
現代台湾の作家、クオ・チャンシェンの『ピアノを尋ねて』は、演奏家をめざしていたが教育者へと転じた亡き妻メアリーをめぐる物語である。実業家の男、林(リン)サンは、失った妻が主宰していた教室の閉鎖を考えている。演奏家になることを諦めて調律師になった「わたし」は、調律に行った先のピアノで、練習を続けている。林サンの自宅に残されたスタインウェイの調律をめぐって、ふたりの人生が交錯する。ニューヨークへの旅は、ふたりの過去を呼び覚まし、翳(かげ)りのある調子で進んで行く。
また、グレン・グールドやスヴャトスラフ・リヒテルのような名演奏家たちのエピソードも並行して語られる。一握りの天才でさえも、デビュー時代の若さはいつか失われる。その人生はときに哀(かな)しみに満ちている。音楽の華やぎや情熱の裏側に、だれにも等しく訪れる老いが待っている。
風采があがらなかった作曲家フランツ・シューベルトの人生を「わたし」は振り返る。彼は九つの交響曲や名高いピアノソナタや歌曲を残した。「ひょっとしたら、彼が追い求めていたのはその名を世界に轟(とどろ)かすことなどではなかったのかもしれない。空虚さや愛欲の渇きを満たすことのできない不全感と向き合うために、彼はこうした創作を後世に残したのではなかったか」
芸術には、成功を求める欲望が眠っている。けれども、その野心が成就したとしても、幸福が約束されるはずもない。クオ・チャンシェンは、この主題を繰り返し語る。音楽周辺の知識は、小説を味読するための必要条件ではない。主題は人間として生きることの痛みへと届いているからだ。
(倉本知明訳、新潮クレスト・ブックス・2145円)
1964年生まれ。台湾の劇作家、エッセイスト、小説家。
◆もう1冊
『わが友、シューベルト』堀朋平著(アルテスパブリッシング)