圧倒的な才能で周囲を魅了した天才少女が事故死…「演劇学校」を舞台に死の真相に迫ったミステリ作品 『少女マクベス』試し読み

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 了が落ちた瞬間をさやかは見ていない。何人かが悲鳴のような声をあげた。何か重いものがぶつかる大きな音が聞こえた。事故を報じたインターネットの記事によると、衝突音は客席にも聞こえたらしい。大きなセットが倒れたのだと思ったという人もいれば、劇場の外で交通事故があったか雷が落ちたのだと思ったという人もいた。目撃した生徒が袖から舞台に飛び出し、下手奥の大穴の縁から奈落を覗きこんだ。八メートル下では、大釜の修理に取りかかろうとしていた美術班の生徒たちがパニックを起こしていた。彼女らの誰も巻きこまれずにすんだのは不幸中の幸いだったと言える。了は大釜のなかに落ちた。意識と機能を失ったその体が病院に搬送されたあとには、血にまみれて大破した釜が残った。
 了は没頭するタイプだった。創作にのめりこんで寝食を忘れたり講義をすっぽかしたりするのは当たり前、身だしなみなど二の次、三の次になり、髪は鳥の巣、服はよれよれ、眼鏡も汚れた状態で、ふらふら歩いている姿がよく見られた。そのせいでしょっちゅう何かにつまずいたりぶつかったり、物を落としたりしていた。まして事故が起きたのは、定期公演の本番当日だ。脚本・演出を手がけた了はいつにもまして疲労が溜まっている様子だった。しかも急に舞台に出ていったからには何らかの明確な目的があったはずで、そのことで頭がいっぱいだったということは充分に考えられる。了の目的が何だったのかはわからないままだ。調べてみても大釜の破損の他に舞台に物理的な問題はなかったから、おそらく了の独自の感性による思いつきがあったのだろう。
「あの一年生、藤代貴水さん、だったわね。了と親しかったのかしら」
 胸の前で白い両手を組み合わせて綾乃が言う。
 綺羅がスマホを取り出し、すばやく指を動かした。
「ふじしろたかみ、って検索したけど、それっぽいものはヒットしないな。中学の後輩とか? 了って北海道出身だっけ」
「真相なんて言うと、まるでただの事故じゃなかったみたいに聞こえるわ」
「じゃあなに、殺人事件? ミステリーじゃん」
「茶化さないで、不謹慎よ」
 もちろんそんなことはありえない。あのとき了の体に触れられるような距離には誰もいなかった。了がひとりで歩いていってひとりで落ちるのを、作業中だった多くの生徒が目撃している。また迫りは完全に下り切って静止していたので、その操作と彼女の転落に関連はなかった。
 するとあの一年生、藤代貴水は、自殺の可能性を疑っているのだろうか。それこそありえない話だ。動機が見当たらないし、遺書のたぐいもなかった。何より、大事な公演の本番中に演出家がそんなことをするものか。警察も事故だと断定し、遺族も納得している。

降田天
執筆担当の鮎川颯とプロット担当の萩野瑛による作家ユニット。少女小説作家として活躍後、2014年に「女王はかえらない」で第13回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、降田天名義でのデビュー。18年、「偽りの春」で第71回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞。著書に、「偽りの春」が収録された『偽りの春 神倉駅前交番 狩野雷太の推理』『彼女はもどらない』『すみれ屋敷の罪人』『ネメシスIV』『朝と夕の犯罪』『さんず』『事件は終わった』などがある。

双葉社
2024年10月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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