SNSでよく見るやつ……紀元前の「論破厨」に中国思想家「荘子」はどう答えた? 頭がくらくらするけど面白い『荘子の哲学 斉物論篇』試し読み

試し読み

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 荘子の思弁の冴えを味わう鍵は、どうやら「子曰く、女、安くんぞ魚の楽しむを知らんや、と。云う者は既已に吾が之を知るを知りて我に問えり」の解釈にある。この箇所、諸家はどう訳しているだろうか。

 君は「お前にどうして魚の楽しみがわかろうか」といったが、それはすでに、僕の知識のていどを知ったうえで、僕に問いかけたものだ。(金谷本)

「吾が之を知るを知りて」を金谷本は「僕の知識のていどを知ったうえで」と訳している。この訳文は二通りに読める。どっちなのかは玉虫色だ。
 ひとつは、魚の気持を知ることなどできっこない、つまり魚の気持がわかるような超能力はもっていない、という荘子の知識の程度を知ったうえで、という読み。荘子には魚の気持がわかってなどいないことを恵子はわかったうえで、という理解だ。
 もうひとつは、荘子が魚の気持をちゃんとわかっていることを恵子はわかったうえで、という読み。つぎの福永本の解釈はその方向だ。

 君は「君にどうして魚の楽しみが分るのか」とたずねたとき、もうすでにぼくに魚の楽しみが分かっていることを知っていて、問いかけていたんだよ。(福永本)

 魚が楽しんでいるかどうかは、ふつうの人間にはわからない。だが荘子にはそれがわかっている。荘子がわかっていることを恵子はよくわかったうえで、という理解だ。
 荘子はべつに恵子をとがめてはいない。あんたがわかってくれているってことは、おれにはよくわかっているよ、と荘子と恵子とはおたがい理屈を超えた深いところで体験を共有している。

 雑魚のぶんざいで両大家に逆らうようだが、ぼくは「吾が之を知るを知りて」の箇所をつぎのように読みたい。
 魚が楽しんでいることを荘子がほんとうに知っているかどうかは保証のかぎりでない。とはいえ「あれこそ魚の楽しみだね」と口にするからには、すくなくとも荘子が魚の楽しみを知っているつもりになっていることだけはまちがいない。恵子は、そんなふうに荘子が知っているつもりになっていることをふまえて、どうして魚でもないのに魚が楽しんでいるとわかるんだとイチャモンをつけている。
 そこをとらえて荘子は、魚が楽しんでいることをおれが知っているつもりになっていることを知ったうえで、あんたは文句をいっているんだろ、と確認する。おれが知っているつもりになっていることを、ちゃんと知っているよね、と。
 もし知っているつもりになっているという荘子のこころを知ったうえで恵子がとがめているとすれば、それは「他人の気持はわからない」という恵子みずから拠ってたつところの原則と抵触する。
 「その考えはおかしい」というためには、「おかしなことを考えているようだが」と、相手の考えがわかっていることを前提としなければならない。すると「他人の気持はわからない」という原則をみずから破らざるをえなくなる。
 知っているか知らないかという議論ができるためには、知ることの可能性を前提としてみとめていなければならない。ほんとうに知っているかどうかは別問題だ。
 かくして「他人の気持ちはわからない」という主張は、これを相手にぶつけることはできない。
 魚は楽しんでいると知ったつもりになっているという自分のこころを知っていると荘子自身はおもっているはずだ、と恵子はおもっている。「吾が之を知るを知りて」における「之」が指すのは、魚の楽しみそのものではない。荘子が魚の楽しみを知っているつもりになっていることだ。そうだとすると、あんたは自分のふまえている原則をみずからふみにじることになっちまうぜ、と荘子は指摘する。

 荘子は「最初にもどって考えてみよう」とうながす。あんたのふまえている原則そのものを吟味してみようじゃないか、と。
 なんで魚の楽しみがわかったりするんだと文句をつけたりすると、おれが魚の楽しみを知っているつもりになっていると知っていることになってしまう。するとあんたのふまえている原則をあんたはふみにじることになってしまう。あんたのふまえている原則にのっとるかぎり、あんたはおれに文句をつけられないんだよ。
 ラストの「おれには濠水のほとりで魚の楽しみがわかったってことさ」というセリフは、知っているのだという自分における端的な事実をあらためてつきつけている。この一言は、あたかも荘子の勝利宣言のように、恵子の耳にはひびいただろう。

 荘子の説くところがおそろしく晦渋な印象をあたえるのは、かれが形而上学を論じているからだ。
 形而上学とは、目でみたり、耳できいたり、手でさわったり、そんなふうに感覚でとらえられる事実を超えたものが存在すると考え、その真相を究明しようとすることだ。
 荘子が「我、之を濠上に知るなり」とうそぶく仔細が、そういう形而上学をふまえたものだとすれば、感覚でとらえられる事実をいくらしらべてみたところで、かれの所論のなんたるかはわからない。
 ぼくが荘子を好きなのは、けっして浮世ばなれした超論理がおもしろいからではない。むしろ逆だ。とことん理詰めであろうとする姿勢、それこそが荘子の魅力だ。

(以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて)

Book Bang編集部
2024年9月24日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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