SNSでよく見るやつ……紀元前の「論破厨」に中国思想家「荘子」はどう答えた? 頭がくらくらするけど面白い『荘子の哲学 斉物論篇』試し読み

試し読み

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序章

 斉物論篇をひもとくまえのウォーミングアップとして、秋水篇の「濠梁」寓話を読もう。荘子の思弁がいかに冴えているかということを、この場をかりてプレゼンテーションしてみたい。

 荘子と恵子とが濠水にかかる橋のうえを散歩している。
 荘子がいう「ハヤがのびのびと泳ぎまわっている。あれこそ魚の楽しみだね」
 恵子がいう「きみは魚でもないのに、どうして魚の楽しみがわかるんだい」
 「あんたはおれじゃないのに、どうしておれに魚の楽しみがわからないってわかるんだい」
 「ぼくはきみじゃないから、もちろんきみのことはわからないさ。それといっしょで、きみも魚じゃないんだから、きみに魚の楽しみがわからないのもあたりまえだろ」
 「ひとつ最初にもどって考えてみよう。どうして魚の楽しみがわかるのか、とあんたはたずねてきた。そんなふうに問うってことは、もうすでにおれが魚の楽しみをわかっているつもりになっていることを知ったうえで、そんなふうに問うてきたわけだ。つまりおれには濠水のほとりで魚の楽しみがわかったってことさ」

 荘子与恵子遊於濠梁之上。
 莊子曰、鯈魚出遊従容。是魚楽也。
 恵子曰、子非魚、安知 魚之楽。
 荘子曰、子非我、安知我不知魚之楽。
 恵子曰、我非子、固不知子矣。子固非魚 也、子之不知魚之楽全矣。
 荘子曰、請循其本。子曰女安知魚楽。云者既已知吾知之而問 我。我知之濠上也。
————
 荘子、恵子と濠梁の上に遊ぶ。
 荘子曰く、鯈魚出で遊ぶこと従容たり。是れ魚楽しむなり。
 恵子曰く、子は魚に非ず、安くんぞ魚の楽しむを知らんや。
 荘子曰く、子は我に非ず、安くんぞ我が魚の楽しむを知らざるを知らんや。
 恵子曰く、我は子に非ざれば、固より子を知らず。子は固より魚に非ざれば、子の魚 の楽しむを知らざること全し。
 荘子曰く、請う其の本に循わん。子曰く、女、安くんぞ魚の楽しむを知らんや、と。 云う者は既已に吾が之を知るを知りて我に問えり。我、之を濠上に知るなり。

 恵子は「他人の気持ちはわからない」という原則にたち、魚の楽しみがわかるという荘子の言葉に疑いをさしはさむ。きみは魚じゃないんだから、魚の気持はわかりっこない、と。
 その論法を逆手にとって荘子は反駁する。あんたはおれじゃないんだから、おれの気持はわかりっこない。だからおれに魚の気持がわかるかどうかもわかりっこない。
 恵子はひるまない。なるほどぼくはきみじゃない。だからきみの気持はわからない。それはみとめよう。きみは魚じゃない。だから魚の気持はわからないはずだ。それもみとめてくれ。
 ここまでの議論は、要するに「他人の気持はわからない」という理屈で一貫している。この原則をふまえているかぎり、さすがの荘子も恵子を論破することはできない。

 恵子の論法にのっとって恵子をやりこめようとしてもダメだってことで、荘子は戦法を変える。ひとつ最初にもどって、おたがい頭を冷やして考えなおしてみようじゃないか、と提案する。
 どうして魚の楽しみがわかるのかとあんたはいってきた。それってもうすでにおれが魚の楽しみがわかっているつもりになっているということを知ったうえで、そんなふうに文句をつけてきているわけだよね、と荘子はいう。
 いやあ、じつに鋭い。鋭すぎて、すぐにはピンとこないくらい鋭い。

Book Bang編集部
2024年9月24日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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