元楽天・聖澤諒が目撃した「初めて見る野村監督の涙、弱い姿」 野村克也監督時代最後となった2009年のクライマックスシリーズの裏側

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聖澤諒さん

元東北楽天ゴールデンイーグルスの聖澤諒氏は、中学・高校と弱小野球部の出身ながら、プロ野球選手として盗塁王や外野手無失策記録を作り、球団初の日本一では中心選手として活躍した「激レア」な経歴を持つ。
聖澤氏は引退後も野球解説者を務めるほか、9月発売の著書『弱小チーム出身の僕がプロ野球で活躍できた理由』(辰巳出版)の出版に際しては、球場や書店で複数の対面イベントが組まれるなどいまだファンから人気の高い選手である。

聖澤氏が東北楽天ゴールデンイーグルス在籍していた時代には数々の名監督がその名を連ねる。それぞれの監督はどのようにしてチームを作り上げたのか。聖澤氏が振り返る。

(以下は『弱小チーム出身の僕がプロ野球で活躍できた理由』(辰巳出版)をもとに再構成したものです )

球団史上初のAクラス入りと野村監督の解任

 2009年のレギュラーシーズン。球団史上初めてのAクラス入りを果たして2位となりました。初めてクライマックスシリーズに進出し、ファーストステージの相手はシーズン3位のソフトバンク。その大事な初戦を前に野村監督がこの年限りで解任されるという発表がありました。初戦の試合前、選手全員が集まりミーティングが行われているところに入ってくると、野村監督自身の口から報告がありました。

「来年みんなと一緒に野球をすることができなくなった。1日でも長くみんなと野球をやりたかったのに申し訳ない。お世話になりました」

 時間にして1~2分くらいでした。初めて見る野村監督の涙、弱い姿。ミーティングルームがシーンと静まりかえりました。山崎さんをはじめとしたベテラン選手達から「監督のためにも日本シリーズにいこう!」そんな声が上がり、一気に士気が高まりました。
 
 その効果もあってか、岩隈久志さんと田中将大の連続完投勝利でソフトバンクに連勝し、ファーストステージを見事に突破。しかし、続くセカンドステージでは、ダルビッシュ投手や稲葉篤紀選手などを擁するシーズン1位の日本ハムに敗れ、野村監督を日本シリーズに連れて行くことはできませんでした。最後は敵地札幌ドームで両チームの選手が胴上げをして、野村監督との2年間が終わりました。
 

野村監督から学んだこと

 野村監督から学んだことはたくさんありますが、一番は「考えて野球をする」ということ。二軍にも一軍の選手よりも速いボールを投げるピッチャーはいます。遠くに飛ばせるバッターもいます。でもなぜか一軍ではなかなか結果を出すことができない。そんな選手をたくさん見てきました。一軍の選手も二軍の選手も体格や資質、技術にはそんなに違いがあるようには思えません。その違いはどこにあるのでしょうか?
 
 プロ入り以来、ずっとその答えを考えていましたが、野村監督の下で野球をするなかで、その答えが分かったような気がしました。それは「深く考えて野球をしているかどうか」という違いです。僕も技術が足りないところからのスタートでしたが、その足りない部分をどうしていけばいいのかを考えてきました。考えることで技術を補っていくことができ、やがて技術も伴っていったのです。
 
 ただ打って、ただ投げている選手よりも、考えて野球をする選手、考える能力が高い選手が活躍できる世界なのです。それはプロ野球だけではなく、世の中の全ての業種にも言えることかもしれません。

水があったブラウン監督

 野村監督が辞められたことはショックというよりも、むしろチャンスだと捉えるようにしていました。野村監督は一芸を大事にする監督でしたので、例えば先輩の憲史さんであれば一芸は「打」と認識されていましたし、僕の一芸は「足」と認識されていました。試合で使っていただけることはありがたいことなのですが「レギュラーを獲る」という目標を掲げた僕にとっては、「足」以外の部分もアピールして一芸の選手から脱却せねばならず、そういう意味では新しい監督に代わるのは大きなチャンスだと考えていました。

 新監督は広島でも監督を務めていたマーティー・ブラウン監督。楽天の選手のこともあまり知らないだろうから先入観なく見てもらえるのではないかという期待と、初めに良い印象を与えることができれば、レギュラー獲りも見えてくるかもしれない。そんなことを考えていました。

アピールするための奇策

 どうすれば新監督に良い印象を与えることができるか? どうやってアピールしようか? そこで僕は、1人だけ背中に「HIJIRISAWA」と入った試合用のユニフォームを着て練習することにしたのです。もちろん、ブラウン監督に「僕が聖澤ですよ!」とアピールするためです。
 
 これが全てではないと思いますが、名前を覚えてもらう作戦が上手くいったのか、翌年のオープン戦では積極的に起用してもらえるようになりました。ブラウン監督の下での野球は放任主義というか自由でした。試合で結果を出しさえすれば良い、良ければ使うし駄目なら使わない。方針はとてもシンプルでした。
 
 中学時代に指導者がいない環境で自分で考えながら野球をやってきた僕にとっては、ブラウン監督の自由放任主義のやり方はむしろ望むところ。水があったというか、良いタイミングでブラウン監督に出会うことができました。

3年目で掴んだレギュラーの座

 好調を維持して迎えたオープン戦最終戦。ここまでは打率3割5分くらい打っていたのですが、試合開始前に監督室に呼ばれました。部屋に入るとブラウン監督は紙に9マスのストライクゾーンを描いて、もっとポイントを絞って打ちに行った方が良いとアドバイスをしてくれたのです。確かに、それまでの僕はストライクゾーンに来たと思ったらなんとなく全部打ちに行っていました。そのことを意識してバッターボックスに入ると、その試合では早速2本のヒット。自分のなかでもブラウン監督からのアドバイスがしっくりハマった感覚がありました。

3年目のシーズンは前年の試合出場安打から135試合出場150安打。打率も2割9分と大きく成績を伸ばすことができました。バッティングが大きく向上したことで一芸選手から脱却し、目標にしていた「レギュラーを獲る」を達成することができたのです。

聖澤諒
1985年11月3日生まれ。長野県出身。長野県立松代高校、國學院大學を経て2007年に大学・社会人ドラフト4位指名で東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。背番号は「23」。入団後は足のスペシャリストとして活躍し、2012年に54盗塁で盗塁王のタイトルと12球団トップの得点圏打率を記録。2013年の球団初のリーグ優勝、日本一ではチームの中軸として大きく貢献した。守備の巧さに定評があり、2014年に連続守備機会無失策のNPB新記録を樹立。2018年まで11年間プレーし、現役引退後は球団が運営する「楽天イーグルスアカデミー」のコーチに就任した。180cm80kg。右投左打。

辰巳出版
2024年9月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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