『細雪』『華麗なる一族』を彷彿とさせる設定に、ミステリを組み合わせた長編小説 『檜垣澤家の炎上』試し読み

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 刊行直後から、読売新聞・朝日新聞の書評欄に取り上げられた話題作『檜垣澤家の炎上』。

 明治・大正期の横浜を舞台に、一代で富を築き上げた檜垣澤家に引き取られた高木かな子が、孤立無援の中から自らの才覚で居場所を見つけてゆく成長譚であり、大邸宅で起きた婿養子の不審死をめぐるミステリです。

『細雪』×『華麗なる一族』×ミステリ

 800ページの大作ながら一気読み必至と評判の大長編から、試し読みとして、作品の冒頭を公開します。

序章

「とくに変わった様子はないようだね。今日は大奥様への報告は要らないよ」
 山名医師はそう言って、微笑んだ。少しも偉ぶったところがなくて、子供のかな子に対しても横柄な態度をとったりはしない。洋行帰りのお医者様らしく、丸い眼鏡を掛けてカイゼル髭を生やしているけれども、控えめな物言いのせいか、そもそも顔立ちが優しすぎるせいか、正直なところ髭も眼鏡もあまり似合っていなかった。
 琺瑯(ほうろう)引きの洗面器で手を洗い終わるのを見計らって、いつものように西洋手拭を広げて山名医師に差し出した。
「有り難う。君は小さいのに、良くやっている。お父様もさぞお喜びだろう」
 かな子は黙って頭を下げる。我ながら無愛想だと思わないでもなかったが、かな子が子供らしく笑ったり、楽しげな声を上げるのを快く思わない人々がこの家には多くいる。大奥様、奥様、旦那様、使用人たち……。お嬢様がたと書生たちは、かな子に無関心だから除外してもいい。
 唯一の例外は父だったが、一年ほど前に卒中の発作で倒れて以来、話せなくなってしまった。耳に心地よい甘やかしの言葉を父から聞けなくなって久しい。
 黒革の鞄を提げて山名医師が帰っていくと、かな子は窓から下を見下ろした。父の部屋からは屋敷に出入りする人々の様子がよく見える。と、俥(くるま)が門の外へと走り出していくのが見えた。誰かが乗っている。こんな時分に出かけるなんて、誰かしらと、かな子は首を傾げる。
 山名先生じゃないわ、と内心でつぶやく。山名外科医院は檜垣澤家の屋敷とは目の前の道を隔てて斜向かい。俥を使うような距離ではない。それに、今し方この部屋から出て行ったところなのだから、山名医師はまだ屋敷の中だ。
 珠代お嬢様はお友だちのお宅へお出かけだし、雪江お嬢様は気分がすぐれないと学校から帰るなり自室へ籠もってしまわれた、郁乃お嬢様、ではなくて、若奥様は昼前にお出かけになった……と、そこまで考えたときだった。
 うう、と背後で呻き声がした。窓の下を覗き見るのは止めにして、かな子は寝台へと駆け寄った。
 白湯を飲ませたのはつい先刻だったし、褓(むつき)も診察の前に取り替えた。寝返りは、山名医師が診察のついでにやってくれた。心なしか病人の顔が白い気がして、もしやと布団の足許に手を入れると、行火(あんか)が冷えてしまっている。松が明けて間もない一月半ば、昼間であっても寒い。
「ちょっと待っててね」
 お父ちゃん、と呼びかけると目許がわずかに和んだように見えた。父はその呼び方をことの他好んだ。
『お父ちゃんは今でこそお大尽だけどね、もとは私らと同じような家の出だったのさ。だから、お上品なお嬢様ばかりでなく、お父ちゃんと呼んでくれる娘も欲しかったんだよ。その辺の菓子屋に出かけて、飴玉だの、豆ねじだのを買ってやれる娘がね』
 母は常々そう言っていた。実際、この家の人々の呼び方は「大旦那様」か「お父様」のどちらかで、「お父ちゃん」と呼ぶのは、かな子しかいない。そのかな子でさえ、父と二人きりのときでなければ、決してその呼び名を口にはしなかった。
 もっとも、お父ちゃんという呼びかけに目許を和ませたように見えたのは気のせいかもしれない。父の両の目は、腫れぼったくなった瞼にすっかり埋もれてしまって、よくよく気をつけて見ないと眠っているのかどうかさえ判別が難しい。それでも、かな子は父が嬉しそうに微笑んだと思いたかった。寝返りひとつ満足に打てない体となっても、中身は以前と変わらぬ父なのだと信じたかった。それほどまでの変わりようであったのだ。
 病に倒れる以前の父は、くっきりとした二重瞼であったし、西洋人の間に混ざっても少しも見劣りのしない鼻筋の通った顔立ちだった。白と黒が半々で、遠目に見れば燻し銀だった頭髪も、病を得てからは白髪ばかりになってしまった。その白髪も以前に比べて頼りないばかりの細さで、染みだらけの地肌が透けて見えている。
 おまけに、後頭部には倒れた際にぶつけたのだろう、赤い傷跡が残っていた。もちろん、塞がってはいるのだが、赤く盛り上がった肉が見るからに痛そうで、寝返りを打たせるたびに顔をしかめずにいられない。
 かな子を軽々と抱き上げていた腕も、骨に皮が貼り付いているといった案配である。倒れて以来、かな子を抱き上げるどころか、自らの力で動かすことすら叶わないのだから、衰える一方なのだった。これまで長患いの者が身近にいなかったために、病魔というものがこれほどまでに人を蝕み、弱らせていくとは知らなかった。まさか、大好きだった「お父ちゃん」からそれを教えられるとは。かな子にとって、それが何よりも辛く、悲しいことだった……。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

永嶋恵美
1964(昭和39)年、福岡県生れ。広島大学卒。1994(平成6)年、「ZERO」でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し、映島巡のペンネームでデビュー。ゲームや漫画のノベライズなどを手掛ける。その一方で、永嶋恵美として、エンターテインメント小説を執筆。2004年に発表した『転落』が大きな注目を集める。2016年、「ババ抜き」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。ほかに、「泥棒猫ヒナコの事件簿」シリーズ、『せん-さく』『一週間のしごと』『明日の話はしない』『視線』『なぜ猫は旅をするのか?』『ベストフレンズ』などの作品がある。

2024年9月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
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