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- ブルーマリッジ
- 価格:1,760円(税込)
「男子は全員読むべき」
「無意識の加害、パートナーを持つ意味。今の私に一番刺さる本」
「リアルさが苦しくてつらいけど、読んで良かった」
カツセマサヒコさんの3作目の長編小説『ブルーマリッジ』(新潮社)が、多くの反響を呼んでいる。
その理由は、二人の男性を軸に、結婚や離婚、仕事、夫婦、ハラスメント、過去の加害など、現代だからこそ起きる問題や葛藤をゾッとするほどリアルに描かれているからだ。
今回は試し読みとして、長年連れ添った妻から突然離婚を突き付けられた50代中年男性のヤバさを描いた第6章と、3歳年上の彼女にプロポーズしたばかりの20代青年の複雑さを描いた第7章を公開する。
六. 雨と沸点
午後に三つの得意先を回った後、直帰するか悩んだ末に、会社に戻った。
美貴子が失踪して、四日が経つ。どうせ今日も、家には誰もいない。飯が用意されているわけでもないなら、無人の散らかった家でだらだら過ごすより、少しでも仕事を進めておくほうがましだと思った。
二十時過ぎにデスクに着くと、フロアにはもうほとんど人がおらず、一部では電気が消されていた。俺の課に残っていたのは、長谷川仁美だけだった。
「みんなは?」
ジャケットを脱ぎながら尋ねると、「あ、今日は帰りましたよー」と、長谷川が一瞬顔を上げて答えた。
長谷川は疲れた様子も見せずに働いている。優秀だし、ガッツがある。三条もそう誉めていた。たしかに、こいつを見ていると、不思議とこっちまでやる気が湧いてくる気がする。長谷川にはそういう、言葉にし難い魅力がある。まだ八年目だから早すぎるが、このままいけば最年少の女性課長もあり得るかもしれない。
「今、なんの仕事してんの?」
「あ、今日のプレゼン、反応が良くて。見積もり作ってるんです」
「おおー、あの、女の子が担当のとこ?」
「あ、そうです、そうです!」
「あー、やっぱ女同士、波長が合うみたいなとこがあんだろうな。俺の言ったとおりだったろ」
両手の親指を立てて見せると、長谷川も同じポーズをする。
鞄をデスクの上に置くと、煙草の箱がずれて、床に落ちた。拾おうとした途端、胃の中のガスが溜まっていたのか、昼に食った蕎麦のネギの香りが喉の奥から漏れ出た。
「で、受注取れそう?」
「んー、わかんないですけど、多分」
「なんだよわかんないって」
「あははは」
長谷川がパソコンの画面に目を向けたまま、意味もなく笑う。
「見積もりは、いつ終わんの?」
「あ、これですか? もう、少しです」
「お、じゃあそれ終わったら、軽く飯でも行かない?」
オフィス近くの店を思い浮かべながら言うと、長谷川はまた軽く笑った。
「あー、でも、ほかの仕事が」
「ええ? いや、いま作ってる見積もりが通ったらよ、その先のこと考えなきゃいけなくなるだろ? だから今のうちに戦略練っておきたいんだよ」
「あー、そうか、そうですよね。でも、すみません、連休に入る前にどうしても他の仕事をやっておきたくて」
「あー、じゃあ、それ終わるまで待つよ」
座ると、腰が痛んだ。デスクの脇に週報の山ができており、それを捲って、判を捺す。
「あの、今日はほんとに、時間かかりそうなので。先に食べてきてください」
「えー? 本当かよ。長谷川の好きなウニ食いに行くって言っても?」
あはははと笑ったあと、やはり顔は画面に向けたまま、長谷川は黙った。
「え、本当に、先に行っていいわけ?」
「はい、すみません、もし早く終わったら、すぐ連絡入れますんで!」
「あーじゃあ、店決めたら、LINE入れとくわ。それでいい?」
「はい、ありがとうございます!」
渋々、先にオフィスを出た。五月も近いのに、夜はまだ肌寒い。
オフィス街だからか、会社の近くには、居酒屋も定食屋も多い。その中にひとつ、昔からよく使っている海鮮居酒屋があった。元々寿司屋をやっていた店主が開いた店で、この辺りでは群を抜いて、刺身がうまい。今日もそこに顔を出してみる。
「二人で」
「あ、奥のテーブルで!」
いつもの若い店員が、店の奥の二名掛けテーブルを指差した。店名を長谷川にLINEで送ってから、生ビールと刺身の三点盛りと、白子を頼む。ビールより少し遅れて出てきた白子を食べようとしたところで、テーブルに、箸がないことに気付いた。
それで、また美貴子のことを思い出した。
あいつはよく箸を出し忘れる。夕飯の皿を並べるところまではできるのに、箸だけ忘れたりする。飯を食うために箸が必要なことくらい幼稚園児だってわかるのに、美貴子は指摘されるまで、気付かない。何事にも気付けない女だった。人の気持ちを察することができず、こちらが何度指摘しても、学ばない。
挙句、家出の真似事までしているのだから、救いようがない。
苛立ちを流し込むように、ゆっくり二杯のビールを飲んでいると、いつの間にか二十一時半を過ぎていた。
もう店に入って、四十五分は経っている。見積もりの作成に、そんなに時間はかからないだろう。携帯を見ると、ちょうど長谷川からLINEが届いたばかりだった。
──すみません! 仕事がなかなか終わらず、もうすぐ解放されそうなのですが、少し体調が悪くなってしまいまして……。楽しみにしていたのですが、今日はお先に失礼させてください。また別日に、ご一緒します!
二度、読んだ。
沸き上がる怒りを殺すため、一度、目を瞑り、深く息を吸ってから、返事を打った。
──上司を待たせているのだから、顔くらい出すのが礼儀。待ってます。
携帯をテーブルの上に放ると、残り数センチだったビールを、一息で飲み干す。放ったばかりの携帯をすぐにまた見るが、LINEには既読もついていなかった。
もう一度、今度は芋焼酎をロックで頼んで、それも飲み終わるまでに長谷川が来なければ、帰ろうと決めた。上司の時間を無駄にするような部下に、長く付き合う気はなかった。
運ばれてきたロックグラスを受け取ると、その一杯をじっくり飲んだ。
かなり、ゆっくり飲んだつもりだった。
それでもやはり、長谷川から既読がつくことはなかった。
結局、同じものをあと二杯飲んだが、長谷川はついに現れなかった。
あいつも、そんなもんか、と思う。
やむを得ず、店の入口まで会計に向かった。
どのように長谷川を叱るべきか。そのことを考えながら支払いを終えて、店の外に出ると、ちょうどそこに、見覚えのある後ろ姿が見えた。
長谷川だ。
駅方面に向かって歩いていく長谷川の姿が、確かに見えた。
すぐに声を掛けようと思ったが、タイミングを逸したのは、どうしてか、長谷川はすぐ傍にある別の居酒屋に、吸い込まれていったからだった。
まるでそっちの店に俺がいると、確信しているかのようだった。
俺も、長谷川の後について行った。店を勘違いしている可能性があると思った。
しかし、長谷川が入っていった店のドアを開けたはずなのに、あいつの姿は、もうそこになかった。
「お待ち合わせですか?」
女の店員が尋ねてくる。
「あ、今、ここに来たのが」
言いかけたところで、すぐ横の個室から、甲高い声がした。誰かを歓迎している様子があって、長谷川の声も、確かにした。
個室は二つある。どちらも座敷だ。手前は誰もおらず、奥の、広い方の個室から襖ごしにギャアギャアと声がする。そのほかに、どこかに出られるような道はない。
迷いなく廊下を進むと、襖を開けた。
若いやつらが五、六人いた。動物園みたいにうるせえ声が、襖を開けた途端に、ピタリと止んだ。
そして、群れの中に、長谷川がいた。コートを脱ぐ途中だった長谷川が、目を見開いて、俺を見た。
「お前、何してんだ」
長谷川はその場で固まり、顔を青くした。ほかの奴らも、ぽかんと口を開けて、俺を見上げたままだった。
「お前ら、うちの社員か?」
前髪がやけに長い、ふざけた髪型をしたガキが、姿勢をただした。
「あ、長谷川の同期の、豊田です。前に、土方課長のところで営業研修も受けました」
六人を見回す。男が四人、女が一人。そこに、長谷川が加わる。
「何してんだ、お前」
もう一度、長谷川に向く。脱いだばかりのコートを腕にかけた状態で、立っている。
「すみません」
「すみませんじゃなくて。何してんだって聞いてんだけど」
じっとこちらを見たまま、長谷川は何も答えない。
「何か言えよ」
「すみません」
「すみませんじゃねえだろ!」
頭の中で、何かが爆ぜた。
糞だ。まともな教育も受けず、上司を裏切ることを大した過ちとも思っていない、糞。
こんなやつのために必死に指導していたのかと思うと、情けなくなり、罵声の言葉が無限に溢れてきた。どれほど俺が、長谷川の成長を願っていたか。どれほど俺が、裏切られた思いでいるのか。
さっきまで飲んでいたアルコールが、全てエネルギーに変換されていった。
冷静になったのは、店を出た後だった。
雨が降っていて、折り畳み傘は会社にあったが、取りに戻る気が起きなかった。一人で駅に向かった。喫煙所はどこにもなかったが、構わず歩きながら煙草を吸った。
階段の混雑を押し退けて、電車に乗る。
車窓に自分が映った。シャツも髪もひどく濡れていた。
最寄り駅に着くと、雨足が強まっている。五分だけタクシーを待ってみようと思ったが、三分経ったところで来る気配もなく、足を進めた。
舌打ちが止まらなかった。煙草を吸いながら、黙々と歩いた。五分ほどしたところにあるコンビニに寄り、傘を買ったが、外国人の店員はなかなか話が通じなかった。
自分の家が見える。
近所の家はみんな明るいのに、うちからは、一つの灯りも見えない。
美貴子はどこにいる。あいつは帰ってくる気がないのか。
もう四日も、留守にしやがって。
鍵を開け、ドアを全力で開く。急いで靴を脱ぎ、家中の電気をつけて回った。靴下まで濡れていて、気持ちが悪い。
「糞。糞。糞」
電気のスイッチを、全力で叩いた。たまに狙いが外れて、うまくつかない。
「糞が」
体が冷えていた。酔いはとっくに覚めている。脱衣所で全裸になって、風呂場の扉を開けた。
そこで初めて、風呂が沸いていないことに気が付いた。
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。
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