本が読みたくても読む時間がない、「積読」が増えていく一方という人は少なくない。
この夏の読書界隈ではガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』が話題だが、「アウレリャノ」という名前の人物が大量に登場するなど難解な作品とも言われ、積読必至と尻込みする人も多い。
芥川賞作家の高瀬隼子さんも、そうした読者のひとりだったという。誕生日に「かっこいいから」というだけで手に取ったが、アウレリャノが多すぎて、それから13年間も積読していた高瀬さん。それでも、いつか必ず読める時が来て、それは本が教えてくれるのだとか――。
文芸誌「新潮」(2024年8月号)の特集「『百年の孤独』と出会い直す」に、寄せた高瀬さんのエッセイを紹介する。
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- 百年の孤独
- 価格:1,375円(税込)
わたしがどうして小説を好きになったのか。かっこいいからだ。
本を読んでいる人がかっこいいし、そもそも本がかっこいい。ぎゅうぎゅうの電車の中でなんとか隙間を見つけて文庫本を読んでいる人や、カフェでタブレットを開いて電子書籍を読んでいる人を見かけると、ぐっとくる。わたしも家の外で本を開くことはよくあるけれど、本の世界に集中するまでの数分間、意識の何割かは「わたし今かっこいいな」と客観的に自分を評することに割いている。本がかっこいいのは子どもの頃からだ。小学生の時、エンデの『はてしない物語』を買ってもらった。赤いビロード風の装幀の素敵な本だった。こんなに素敵な分厚い本を読むわたしも素敵だとうっとりした。たまらなかった。その感覚と全く同じ気持ちを抱いて、大学生の時に入手したのが『百年の孤独』だ。
大学生で20歳だった。アルバイトの給料が入ったので、自分への誕生日プレゼントとして本を買うことにした。生活費の残りと奨学金の振込日を確認しながら、文庫本を厳選して買っていたわたしにとって、名作と名高いものの自分が好きかどうか分からない作品を単行本で買うのは、だいぶ特別なことだった。マルケスは文庫で『エレンディラ』を読んだことがあるだけだった。そもそもわたしは大学生になるまで、海外文学をほとんど読んだことがなくて、大学の友人や先輩からお薦めの作品を聞いて、ひとつ、ふたつと手を伸ばし始めたばかりだった。それでもその歳の誕生日プレゼントに『百年の孤独』を選んだのは、やっぱりかっこいいからだった。
書店にずらりと並ぶガルシア=マルケス全小説の単行本シリーズ。クリーム色の背景に墨で描いたような絵の表紙。なにより、本を締める臙脂色の帯。この臙脂色は、わたしに『はてしない物語』のことを思い出させた。頭の中で、あのかっこいいと、このかっこいいが繋がった。紙袋に入れてもらった『百年の孤独』を大学近くの学生アパートにうきうきと持ち帰り、数ページ読んですぐに頭を抱えた。アウレリャノが……つまり、どのアウレリャノなんだっけ? 冒頭にあるブエンディア家の家系図のページに付箋を貼り、何度も開いて確認した。アウレリャノが多すぎる。今の自分にはこんなにたくさんのアウレリャノを相手にすることはできない、と観念した。それで本を閉じてしまった。
6畳のワンルームに本棚は置けず、炊飯器やテレビが置かれたスチールラックの下2段に本を並べていた。半分は中高生時代に集めた本で、半分は大学生になってから買い揃えた本だった。ほとんど全部が文庫本だったから、おずおずとそこに並べられた『百年の孤独』は、存在感というよりも違和感を発揮して鎮座することになった。
そして13年が経った。33歳になったわたしは東京に引っ越して、本棚も持っていた。文庫だけでなく単行本も増えた本棚の中で、『百年の孤独』は以前ほど違和感なく収められていたけれど、時々思い出して数ページだけ読んでは、「アウレリャノ……」と頭を抱えるわたしの手によって、元の場所へ送り返されていた。
保留に保留を重ねていたある日、本棚の隅で『百年の孤独』が光って見えた。特段なんでもない日だった。一人で家にいて、次はなにを読もうかなとぼんやり本棚を眺めていたのだ。暗くてあたたかい光り方だった。そうか、と納得して手を伸ばし、ページを開いた。あんなに分からなかったアウレリャノのことが、分からないままでも読めるようになっていた。起きている間中読んだ。
その時はまだ会社勤めをしていたのだけれど、いくら本を読む姿がかっこいいと思っているわたしでも、昼休みに同僚に囲まれた自分のデスクで『百年の孤独』を開く度胸はなく(あまりにかっこよすぎる)、人目につかない廊下の隅のベンチでそれを読んだ。一週間ほどかけただろうか。仕事帰りに寄った駅前のドトールで読み終えた。
心の奥の静かで寂しい景色のところに、この本が置かれた感覚がした。随分深い場所だから、自分の心とはいえ気軽に手出しはできないところに。わたしはこの本をもっと早くに読みたかった。20歳の時に、自分の誕生日プレゼントにこれをあげたいと思ったのは、その時に必要だと直感で気付いていたからなのだろう。と言うと、20歳のわたしが「違うって。かっこいいって思っただけだって」と鼻白むかもしれないが、多分そうなのだ。必要だったけれど読めなかった。まだだったからだ。ブエンディア家の様々な人々を十分にわたしの心に迎え入れるには、わたしがまだ整っていなかった。13年が経って準備ができた。そのことをわたしは知らなかったけれど、本の方で分かってくれて、ある時ひっそりと光って教えてくれた。本と人との間には、そういうことが時々ある。
最近『コレラの時代の愛』を手に入れた。単行本のマルケスはこれで2冊目だ。またしばらくの間は、うちの本棚にかっこよく並んで、その時を待ってもらうことになる。待ち合わせ、とふと思う。本棚で待ち合わせ。いつもわたしの方が遅れて到着してしまうので申し訳ないけれど、本はずっとそこで待ってくれているのだ。そう思うと、次の時まで、またその次の時まで、わたしも進んでいくことができる。
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