天才は天才をどう見ていたのか? 『百年の孤独』の作者ガルシア=マルケスを安部公房が語る 「一世紀に一人、二人というレベルの作家」

エッセイ・コラム

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 一般に中南米作家の精神の底を流れているものは、第二次大戦直前の革命と反革命という大きな揺らぎのなかをくぐり抜け、第二次大戦後になってそれを芽吹かせた歴史感覚ではないかと思う。マルケスの場合も同じです。こういう時代背景を抜きにして、単に中南米という一つの地域の文化として考えたのでは分らない。マルケスをとらえるときには、国際的な視点というものが重要なんです。それはマルケスの作品が世界中に翻訳されているとか、コロンビア大学で名誉博士になったとかいうことで国際的なんじゃない。ひとえにローカルな視点を越えたという意味で国際的なんです。『百年の孤独』という作品はとにかく驚くべき作品です。背景とか登場人物の風習、習慣、そういうものはたしかに中南米的かもしれない。日本人なんかとは違ってあくが強いし、食ってるものだって、恐らくそれ食ったら三日ぐらいは体臭が抜けないだろうというようなものばかりだ。しかしそれに目をくらまされると、とんでもない誤解に落ち込んでしまうことになる。そんなこと実はどうでもいいことであって、結局は現代というこの特殊な時代の人間の関係を照射する強烈な光なんです。中南米の作家がとくに時代をとらえやすい立場にいたと言えるかもしれない。こわれかけた共同体の残骸が、とくに意識しなくても楽に見える。以前は日本でも、かなりはっきりした共同体の残像があって、それへのノスタルジアは今でも生きていますね。たとえば演歌。あれは共同体からの外れ者の歌です。共同体は消えても、ノスタルジアは残る。そういう共同体の崩壊過程でおこる人間関係の変質と反作用……それがマルケスの中心の主題です。だから一見したところ舞台は田舎、あるいは小さな町や村ですが、それをとらえる方法ははっきり都市の文学という以外にはない。なぜ都市かというと、その村なら村がすでに地域ではなく時代としての課題になってしまっているからです。

 しかしいくらこんなふうに解説してみたってマルケスの本当のおもしろさは分らない。まるで魔術師みたいにギュッと魂をとらえてしまうあの力は解説でつくせるものではありません。とにかくマルケスを読む前と読んでからで自分が変ってしまう。一番肝腎なことは、ああ読んでよかった、という思いじゃないか。もし知らずに過したらひどい損をするところだった、見落さないでよかった、という、これこそ世界を広げることだし、そういう力を持っている作家との出会いというのはやはり大変なことです。文学ならではの力というべきかもしれない。

 たしかに言葉というのは不自由なものですよ。イマジネーションをつくるにしても、映像とくらべたらまったくの間接操作だからね。生のイメージをぽんと出すほうがずっと楽だ。ただ間接操作であるだけに言葉のほうが受け手の側でのイマジネーションの自由度が広いんです。デジタルとアナログで説明したほうが分りやすいかもしれない。イマジネーションそのものはアナログな情報ですよね。それをアナログのまま伝達するか、いっぺんデジタル化して伝達するか。デジタル化されたものは、もういちどアナログに転換しなおさなければイメージにはならないから、ちょっと複雑な操作を要求されます。しかし、その転換を自分でしなければならないから言葉のほうが自由度が広いとも言える。手数はかかるけど、自分の手づくりのイマジネーションの展開ができる。この違いはやはり大きい。だからいくら映像時代が来ても文学が消えることはありえない。高級だからとか、伝統だからというようなことではない。むしろ表現と認識のメカニズムの問題でしょう。もっとも今のような劇画時代だとどういうことになるのだろう。劇画はアナログによるアナログの伝達だから効率がいいという説もある。たしかにポンと来るところはあるかもしれない。でもよく考えると、何がポンと来ているのか。あれは案外アナログ化されたデジタルにすぎないんじゃないか……その証拠が劇画の擬音過多現象です。アナログ情報を無理にデジタル化すると起きてくるのは擬音とか擬声音なんです。言語学の時間じゃないから、このへんにしておきましょう。もともと日本人にはデジタル信号にたよりすぎる傾向がある。角田忠信さんの『日本人の脳』によると、これは日本語の構造に関係があるらしい。つまり母音だけで意味の形成ができるため、母音も左の言語脳で受けてしまう。現在分っているところでは、日本人とポリネシア人だけで、それ以外は全部母音は右脳で受けている。子音の分節だけを左脳で受けている。なぜ日本人とポリネシア人だけが、母音も子音もひっくるめて左の言語脳で受けてしまうのだろうか。たしかに日本語には母音だけの言葉がある。たとえば角田さんの本に出てくる有名な例だけど、Oという字を四つ並べてみて下さい。日本人とポリネシア人以外には、言葉というよりうなり声にしか聞こえないかもしれない。でも日本人にはちゃんと意味を持ってくる。「王を追おう」となるでしょう。子音の分節なしに母音だけで意味を持つ。たしかに特異現象です。どうしてこういうことになったのかはよく分らない。そう言えば日本語をしゃべるとき、子音を省略してしゃべってもだいたい分りますね。試してごらんなさい。たとえば「学校に行こうか」から子音を消してみる。だいたい意味が通じるでしょう。ところがヨーロッパ語でも中国語でも朝鮮語でも、逆に母音を省略してもだいたい分る。母音をあいまいに発音しても、子音の分節がはっきりしていれば意味は通じる。ポーランド語なんかには、子音だけ八つも並んでいる例があるらしい。日本人にはとても言葉には聞こえない。ただチッチッチッチとさえずっているような感じだろうね。もっとも、これだけだったら単に伝達の形式の違いで、本質的な問題ではない。べータ方式かVHS方式かといった程度の相違です。ところが自然音のなかには母音にちかい構造の音がいろいろと存在している。日本人とポリネシア人はその母音にちかいほとんどの音を全部左の言語脳のほうで受けてしまうんです。だから日本人は犬が吠える、虫がなく、鳥がなく、とすぐに擬人化しがちです。犬の声、虫の声、と声になってしまう。左脳というのはつまりデジタル脳ですね。右脳がアナログ脳。日本人は本質的にデジタル人間らしい。たとえば子供に対するしつけ。赤ん坊の泣き声、日本人は当然デジタル信号として受けとってしまう。つまり左脳で聞いているわけだ。ところが日本人、ポリネシア人以外は、あれを単なる音、音響として右脳で聞いているらしい。しつけが変ってくるのも当然でしょう。赤ん坊のときから、日本人はデジタル的に泣くわけだ。育児ノイローゼになりやすいのも無理はない。

安部公房(作家)
(1924-1993)東京生れ。東京大学医学部卒。1951(昭和26)年「壁」で芥川賞を受賞。1962年に発表した『砂の女』は読売文学賞を受賞したほか、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。その他、戯曲「友達」で谷崎潤一郎賞、『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。1973年より演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、独自の演劇活動でも知られる。海外での評価も極めて高く、1992(平成4)年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に。1993年急性心不全で急逝。2012年、読売新聞の取材により、ノーベル文学賞受賞寸前だったことが明らかにされた。

新潮社
2024年8月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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