人殺しを友達として受け入れることはできるのか? 薬丸岳の長篇ミステリー 『籠の中のふたり』試し読み

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 弁護士と人を殺した男。二人は友達になれるのか──。

『友罪』『Aではない君と』『最後の祈り』など心揺さぶる社会派ミステリーを書き続けてきた薬丸岳の長編小説『籠の中のふたり』が刊行されました。

 傷害致死事件を起こした従兄弟の蓮見亮介と身元引受人となった弁護士の村瀬快彦との交流を描いた本作は、他人と触れ合うことの喜びと難しさ、人殺しの罪と贖罪、そして、ミステリーの面白さを凝縮させた一冊です。

 二人はどのように出会い、関係を深めていくのか? 本作から快彦と亮介が20年ぶりに再会する序盤の一部を試し読みとして公開します。

 ***

「村瀬先生──新田さんというかたからお電話が入っています」
 事務員の松下の声が聞こえて、快彦は目を向けた。新田という人物に心当たりがない。
「とりあえずこちらに回してください」
 松下に告げて外線ボタンが点滅すると、受話器を持ち上げて「お電話代わりました。村瀬です」と電話に出た。
「もしもし……突然、お電話を差し上げてしまい申し訳ありません。わたくし、渋谷にあります道玄坂法律事務所というところで弁護士をしております新田と申します」
 丁寧な口調の男性の声が聞こえた。
 東京の弁護士が自分にいったい何の用だろうか。
「実は……村瀬先生に折り入ってお話ししたいことがございまして……」
「どのようなことでしょうか?」
「できましたら直接お会いしてお話しさせていただきたいと思っておりまして……近々、お時間を作っていただくことはできないでしょうか。もちろん村瀬先生のご都合の良い場所に伺いますので」
 どんな話なのかとても気になる。
「まあ、それはかまいませんが……どのようなお話か、触りだけでも聞かせていただけないでしょうか」
「村瀬先生のご親族についてのお話です」
「わたしの親族の?」
 どんな内容なのか、さらに見当がつかなくなった。
「この続きはぜひお会いしたときにお願いできないでしょうか」
「はあ……まあ……」悶々としながらもそう応えるしかない。
「ちなみに本日のご予定はどのような感じでしょうか?」
「夕方まで事務所におりますが」
「この後、そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか。指定していただければその時間に伺うようにしますので」
 こちらも、この悶々とした思いを今日以降に引きずりたくない。
「わかりました……三時にこちらに来ていただくのでいかがでしょうか」
 快彦が言うと、「了解しました。どうかよろしくお願いいたします」と声が聞こえて電話が切れた。

 内線ボタンが点滅して、快彦は受話器を持ち上げた。
「新田さんがお見えになって、応接室にお通ししています」
 松下の声を聞いて、「わかりました」と受話器を下ろし、机の上に置いてある名刺入れを手に取って立ち上がった。
 応接室の前にたどり着くと、ノックをしてからドアを開けた。ソファに座っていた男性がすぐに立ち上がる。
「お時間を作っていただいてありがとうございます」五十歳前後に思える男性が恐縮するように頭を下げる。
「いえ、こちらこそ。渋谷から埼玉の浦和まで来ていただいて」
 名刺を交換すると、「つまらないものですが、事務所の皆さんでお召し上がりください」と菓子折りを渡された。「どうもすみません」と快彦は受け取り、向かい合わせに座る。
「あの……わたしの親族のことでお話があるとのことですが、いったいどのような……」
 快彦が切り出すと、新田が居住まいを正して「ハスミリョウスケさんのことでご相談させていただきたくて」と返した。
 その名前に覚えがなく、快彦は首をひねった。
 蓮見は母の旧姓だ。
「知世さんのお兄さんである昌弘さんの息子さんです」
 そこまで言われて、ぼんやりとだがその人物のことを思い出した。
 母には奄美大島に住んでいる兄がいた。その息子である従兄弟が、たしかに自分と同い年で亮介という名前だった。すっかり忘れていたが、交流した記憶が何となくある。明るくて活発な子だった気がする。
 だが、もう二十年以上も会っていない。埼玉と奄美大島とは距離が離れていることもあり、母方の親戚との交流はほとんどなかった。そして母が亡くなってからは完全に没交渉になっている。伯父や伯母が母の葬儀に参列していたかどうかははっきりと覚えていないが、少なくとも亮介がいなかったことはたしかだ。
 亮介と最後に会ったのは、母が亡くなる三年前、奄美大島で昌弘の家族と一緒に暮らしていた祖母の葬儀でだった。
「あの……それで……その亮介くんのどういった話なんでしょう……」戸惑いながら快彦は訊いた。
「実は六年ほど前に蓮見さんはある事件を起こしまして、わたしが弁護を担当しました」
「どのような事件を?」
「傷害致死です」
 新田を見つめながらぎょっとした。
「飲み屋で一緒に飲んでいた男性と喧嘩になり、相手に暴行を加えて死なせてしまいました。裁判で懲役七年の刑が言い渡されて現在は静岡刑務所に服役しているんですが……最近、わたしのもとに彼から手紙が届きましてね。仮釈放の申請をしたいので何とか身元引受人を捜してくれないだろうか、と」
「まさか、その身元引受人をわたしに……ということですか?」
 動揺しながら快彦が訊くと、新田が頷いた。
 冗談ではない──
「あの……ちょっと待ってください。わたしと彼とはもう二十年以上も顔を合わせていないんですよ。そんな人間に身元引受人を頼むなんておかしくないですか? 彼の家族になってもらえばいいじゃないですか」
「それが難しいんです。蓮見さんのお母さんは十二年前にお亡くなりになっているので……」
「お父さんもお亡くなりになったんですか」
 快彦が訊くと、「わかりません」と新田が首を横に振った。
「わからない?」
「蓮見さんが子供の頃に失踪してしまったそうで」
 快彦は言葉を失った。
 何とか言い返そうと亮介についての記憶を引っ張り出す。亮介は自分と同じく一人っ子だった。祖父も祖母もいない。
「お父さんが失踪してから亮介さんはかなり苦労されたようです。家計を支えるために十七歳のときに高校を中退して働き始めたそうですが、二十歳のときにお母さんが亡くなり、ひとりで東京に出てくることにしたとのことです」
 そして二十六歳で人を殺して刑務所に服役することになったということか。
「彼の手紙には埼玉に住んでいる従兄弟が弁護士をしているらしくて、ぜひわたしのほうからその人に自分の身元引受人を頼んでもらえないかと村瀬先生のお名前が書いてあって……事務所を調べてご連絡を差し上げたというわけです」
「そう言われても……」
 新田の話を聞いて何か引っかかるものを感じたが、それが何であるのかわからないまま快彦は頭をかきむしった。
「もちろん人を死なせてしまった罪は重大ですし、これからの人生をかけて償っていかなければならないと考えています。手紙を読むかぎり、蓮見さんは事件を起こしたことを深く反省していて、更生の意欲も窺えました。弁護を担当したわたしも、できれば一日も早く社会復帰をして、更生の道を歩むのを望んでいます。失礼ですが、村瀬先生は刑事弁護をされますか?」
「年に何度かは……」
 本当はやりたくないが、所長の方針で年に数回は刑事弁護をするように命じられていて、渋々ながら受け持っている。
「それならおわかりいただけると思いますが、三十二歳の今仮釈放されるのと、このまま刑務所で過ごして身寄りのない状況で社会に放り出されるのとでは、彼の心情や更生への意欲に相当な違いが出るのではないかと思います。実際、満期出所よりも仮釈放のほうが再犯率が低いというデータがあります。それに弁護士という職業柄、彼の身元引受人は村瀬先生が適任なのではないかと感じるのですが」
 それであればあなたがなればいいではないかと思ったが、口にはしなかった。
「どうかお願いできないでしょうか」新田が深々と頭を下げる。
「ちょっと……すぐにはお答えできません」
 歯切れ悪く言うのと同時に新田が顔を上げた。
「もちろんそうでしょうね。ひとつご提案なのですが、実際に蓮見さんにお会いになってみてはいかがでしょうか」
「静岡刑務所に面会に行けと?」
 冗談ではない。どうして自分がそんなことをしなければならないのだ。従兄弟とはいえ、何十年も会っていない男だ。どんな大人になっているかわからないし、面倒はごめんだ。
「もちろん費用はこちらで持ちますし、わたしも同行いたします。今現在の彼と話をしてみて、お決めになってはいかがでしょうか」
「どうしてそこまで彼のためにしてあげるんですか」
 疑問に思って問いかけると、こちらを見つめ返しながら新田が首をひねる。
「新田先生にとっては依頼人のひとりでしかないでしょう。ご自身が受け持った依頼人のすべてにこうしたアフターケアをしてらっしゃるんですか?」
 快彦の事務所を調べて手土産を携えて訪ね、さらに静岡の刑務所まで面会に赴き、ふたり分の費用を負担するという。
「たしかに依頼人のすべてにこのようなことをしているわけではありません。六年ほど前に受け持った事件でしたが、今でも心のどこかで彼のことが気になっていた……というのがあったからでしょう」
「気になっていた?」
「彼はまわりからとても人望があったようです。職場の人たちも、友人たちも、事件を起こした彼のことを悪く言う人はひとりもおらず、むしろ彼がそんな事件を起こすなんてとても信じられないと口々に言っていました」
「でも、亮介くんがやったんですよね?」
「目撃者もいますし、本人もそう認めています。情状証人として出廷してもいいという人がたくさんいましたが、その人たちを裁判の証言台に立たせてさらし者にするのは嫌だと言って彼は断りました」
「職場の人や友人に身元引受人になってもらったらどうですか?」
「わたしも手紙にそう書きましたが、彼はそれを望みませんでした。あくまでも村瀬先生に身元引受人になってほしいと。どうか会うだけでも会ってもらえないでしょうか。手紙にも二十数年ぶりに村瀬先生に会いたいと書いてありました」
 最後の言葉を聞いて、先ほどから引っかかっていたものが何であるのかに気づいた。
「……亮介くんはどうしてわたしが弁護士をしているらしいということを知っていたんですか?」
「そのことについては何も書いていませんでしたので、わたしにはわかりません」
 そう言って首を横に振る新田を見つめながら、どうにも不可解な思いに駆られる。
「わかりました……彼に会うだけ会ってみます」
 快彦が言うと、「そうですか! ありがとうございます」と新田が相好を崩した。
 身元引受人になる気は毛頭ないが、どうして快彦が弁護士であるらしいというのを知っているのかの謎は解きたい。

 玄関ドアを開けると、けたたましい吠え声が耳に響いた。
 快彦は息を潜めながら中に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。靴を脱いで玄関を上がる。
「わかった、わかった……」とすぐ横にあるリビングダイニングのドアを開けた瞬間、足首に鋭い痛みが走った。
「痛い! ロウ! やめろ!」
 快彦は自分の足もとに向けて叫んだが、靴下に噛みついたままロウは離そうとしない。
 リビングダイニングの電気をつけて中の様子があらわになると、こらえていた溜め息が漏れた。噛みちぎられたトイレシートの残骸と糞があちこちに散らばり、ロウの尿でできた水たまりがいたるところにある。
「待て! ステイ! お座り!」と立て続けに指示したが、いっこうに靴下を離そうとしないのでロウを引きずるようにしながら前に進んだ。キッチンに行ってドッグフードを皿に入れて床に置くと、ようやくロウが靴下から口を離して食べ始める。
 快彦は近くに置いてあるトイレットペーパーを手に取って、ロウが食事に夢中になっている間に糞と尿の始末を始めた。転がっている糞を回収し、尿の水たまりをトイレットペーパーで拭うと、部屋を出てトイレに向かった。トイレットペーパーごと糞と尿を便器に流すとリビングダイニングに戻り、心もとないほど脚の細くなった椅子に腰を下ろした。
 ロウを飼い始めてもうすぐ一ヵ月になるが、ペットショップで初めて対面したときの健気さや可愛さが嘘のように、今では傍若無人な振る舞いばかりが目につく。
 犬のしつけ教室のホームページを見ながら何度もしつけに取り組んだが、いっこうに言うことを聞いてくれないで困っている。
 撫でてやろうと手を伸ばせば噛みつき、無視していれば足もとに飛びかかってくる。快彦がリビングダイニングにいないときには置いてある家具にかじりついているようで、テーブルや椅子の脚はぼろぼろになる始末だ。トイレ用のケージを用意してシートを敷いているが、一度たりともそこでしてくれたことはない。
 ホームページの情報によれば、ミニチュアピンシャーは運動能力がかなり高く、なかなか暴れん坊な犬種なので、初心者が飼うのは不向きだという。そのことを黙ったまま笑顔で快彦に売りつけたペットショップの店員を恨みたくなったが、飼ってしまったからには面倒を見るしかない。
 どんなに反りが合わなかろうと家から追い出すわけにはいかないのは自分も理解している。
 皿に入れたドッグフードを食べ尽くすと、ロウがふたたび快彦の足もとに噛みついた。
 それでなくても今日は憂鬱な案件を持ち掛けられて疲れ切っているというのに。
「まったく勘弁してくれよ……」足もとにまとわりつく子犬を見ながら快彦は頬杖をついた。

 ドアが開いて、快彦はタクシーから降りた。支払いを済ませて新田も降りてくると、ふたりで刑務所の正門に向かって歩き出す。
 新田が正門の近くに立っている警備員に近づき、「あの……面会に伺ったのですが」と声をかけた。
「建物を入ってすぐのところに受付がありますので」
 警備員に会釈をして建物に向かい、受付で新田が来意を告げる。もらった紙の一枚とペンを新田に差し出され、快彦は『蓮見亮介』という受刑者の氏名と面会の目的、自分の氏名と生年月日、住所、職業、受刑者との間柄を記入して受付の職員に提出した。身分証明書の提示を求められ、運転免許証を見せる。
「お呼びしますので待合室でお待ちください」と番号札を渡され、新田とともに廊下を進んでいく。
 被疑者や被告人との接見は仕事上何度も経験しているが、刑務所で面会するのは初めてなので少し緊張する。
 待合室のベンチに座ってしばらく待っていると、自分たちの番号が呼ばれて立ち上がった。
 刑務官に言われて荷物をロッカーに預け、金属探知機で身体検査をされてから面会室に通される。
 警察署や拘置所の接見室と同じようにアクリル板で仕切られた小さな部屋だ。
 快彦はアクリル板の前に置かれた椅子に新田と並んで座った。しばらくすると奥のドアが開き、刑務官に連れられてグレーの舎房着に頭を五分刈りにした男が入ってくる。
 こちらと目が合うと、人懐っこい笑みを見せた。
 それまではおぼろげな記憶でしかなかったが、目の前の男を見てあの頃の彼の姿がよみがえった。
 強い意志を感じさせる太い眉が印象的な少年だったが、それは今も変わっていない。変わっていることといえば、あの頃は自分のほうが背が高かったが、今は亮介に抜かれてしまったようで、さらに体形もがっちりしている。
 自分たちと向かい合わせに亮介が椅子に座り、その隣の席に刑務官も腰を下ろす。
「面会時間は三十分ですので、よろしくお願いします」
 刑務官に言われ、「わかりました」と快彦は頷き、亮介に視線を戻した。
「本当に来てくれたんだ」少し身を乗り出すようにして亮介が言った。
「ひさしぶりだな」
 そう言った自分の声音が硬くなっているのに気づく。
「ここに来てくれたってことは、おれの身元引受人を引き受けてくれるってこと?」
「申し訳ないけど、それはまだわからない。新田先生に会うだけ会ってくれないかと説得されてここに来た。今のぼくはきみが知ってるぼくじゃない」
「どういうこと?」
「人と関わることがとても苦手になってる。正直に言うと、煩わしい人間関係は極力持ちたくない」
「人と関わることが苦手なのに弁護士をしてるのか。それこそいろんなやつらと関わることになる仕事だろう」
「たしかに煩わしさを感じることも多いけど、仕事だと思って割り切ってる」
 最初に口を開くまではここまであけすけに自分のことを語るつもりはなかったが、これぐらい突き放すようなことを言っておかないと、快彦が身元引受人になると期待を抱かせてしまうだろう。
「ひとつ訊きたいんだけど」
 快彦が言うと、「何?」と亮介がさらに顔を近づけてくる。
「どうしてぼくが弁護士になってるらしいって知ってたんだ」
「叔父さんに聞いたんだよ」
「叔父さんって……ぼくの父親に?」
 亮介が頷く。
「いったいどこで……」
 母方の親戚とは何十年も年賀状のやり取りすらない。
「八年ぐらい前だったかな……叔父さんがオープンカレッジの講義をするのを知って聞きにいったんだよ。講義が終わった後に訪ねていくと、ひさしぶりだねって嬉しそうに言ってくれて、それから喫茶店でお互いの近況なんかを話した。そのときにおまえは弁護士を目指してて司法試験に合格したって聞いた」
 父からそんな話は聞いたことがない。どうして自分には黙っていたのだろう。話すほどのことでもないと思ったのか。
「それにしても叔父さん……残念だったな……まだ七十一歳ということだろう」
 神妙な声で亮介に言われ、不思議に思った。
「どうしてぼくの父親が亡くなったのを知ってるんだ?」
「たまたま新聞のお悔やみ欄を目にしてな。知ってたか? 刑務所でも新聞は読めるんだよ」
「そうか」
 刑務所の中でのことなど興味はない。
「……というわけで、おまえに身元引受人になってもらおうと思って新田先生に手紙を出したってわけだ」
「どうしてそんな話になるんだよ。ぼくの父親が亡くなったのと、きみの身元引受人になるのにいったい何の関係があるんだ」
「快彦は結婚してるのか?」
 ふいに話題が変わり、戸惑いながら「してない」と快彦は答えた。
「恋人は?」
「……今はいない」
「親友はいるか?」
「いったいそれが何なんだよ!」苛立(いらだ)たしさに思わず声を荒らげた。
「叔父さんはおまえの行く末を心配してたよ。自分が死んだ後、もしおまえがひとりぼっちだったらそばにいてやってくれないかとお願いされて、わかりましたと約束した」
 父から自分がそのように思われていたことに動揺する。
「だけど、今のおれは人を死なせた前科者だ。出所してから友達になろうと会いに行っても、おまえは絶対に拒絶するだろう」
 口にはしなかったが、そうだと目で訴えかける。
「だからそばにいるためにはおれの身元引受人になるしかないんだ」こちらに強い視線を向けながら得意そうに亮介が言う。
「勝手に決めないでくれ」
「あいにく、おれはした約束は必ず果たすと決めてるんだ。満期出所した後におれにつきまとわれるか、身元引受人になっておれと適度な距離感を保ちながらしばらくお付き合いしていくか、よく考えておまえが決めろ」
 咳払いが聞こえて、快彦は刑務官を見た。
 先ほどの発言は脅迫とも受け取られかねないと亮介を窘めたのだろう。
「……話も煮詰まってきたようですし、そろそろいいでしょうか」
 刑務官に言われ、快彦は新田に目を向けた。自分から話すことはないと新田が頷きかけてくる。
「ええ、面会を終了してください」
 快彦はそう答えて立ち上がった。アクリル板の向こう側で笑みを浮かべながら手を振る亮介を一瞥(いちべつ)してから面会室を出る。
 預けていた荷物を受け取り、無言のまま新田とともに廊下を進み、建物を出た。
 刑務所の敷地の外に出ると、新田がスマホを取り出してどこかに電話をかけた。通話を終えるとこちらに顔を向け、「十分ほどでタクシーが来てくれるようです」と言う。
「すみませんが、一服してもいいでしょうか」
 快彦が頷くと、上着のポケットから煙草とライターと携帯灰皿を取り出して新田が煙草を吸い始める。
 それを見ているうちにある衝動が胸にこみ上げてくる。
「ぼくにも一本いただけないでしょうか?」
 快彦が言うと、「煙草をお吸いになるんですね」と新田が持っていた箱をこちらに向ける。
「いえ、生まれて初めて吸います」
 そう答えながら煙草を一本引き抜いてくわえた。小首を傾げながら新田が煙草に火をつける。
 何でもいいから父に反抗してやりたい気分だった。
 空を見上げながら煙草を吸った瞬間、激しくむせた。涙で視界が滲(にじ)む。
「大丈夫ですか?」
 何度も咳き込んだ後、ようやくそれがやんだ。袖口で涙を拭ってから新田に目を向け、快彦は苦みが充満している口を開いた。
「あいつの身元引受人になります」

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

薬丸岳
1969年兵庫県生まれ。2005年『天使のナイフ』で第51回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。16年、『Aではない君と』で第37回吉川英治文学新人賞を受賞。著書に刑事・夏目信人シリーズ『刑事のまなざし』『その鏡は嘘をつく』『刑事の約束』のほか、『友罪』『ブレイクニュース』『罪の境界』『最後の祈り』『刑事弁護人』などがある。

双葉社
2024年7月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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