山の斜面から滑落し、肋骨を骨折しても「絶対に見たい虫」とは…? 精鋭集団を追った『オオクワガタに人生を懸けた男たち』試し読み

試し読み

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 当時市場に出回っていたのは、プロが山から採ってきた限られた天然個体だった。プロというのは、採ったクワガタを売って、生計の一部に当てていた人たちである。オオクワガタの実際の生態・生息地はほとんど知られておらず、採集は極めて難しかった。昆虫少年がいくら勇んで森に向かっても、その痕跡すら見つからなかったのである。

 天然個体の価格が暴落するのは、1990年代中頃からのことだ。飼育技術の向上で量産と大型サイズの作出が簡単になった。自然界では70ミリを超えるオスの個体は稀であるが、飼育では簡単に出せてしまう。現在の飼育レコードは90ミリを超え、これは天然レコードを10ミリ以上も凌ぐ。

 ペットとして求める人にとっては大型で、しかも安価な飼育品の方が魅力的だ。天然の希少性は今でも変わらないが、飼育品との違いを厳格に見分けることは難しく、また求めるのは一部のマニアのみであるため、そのため市場価値が大きく下がってしまったのだ。天然の60ミリのオスを採ることは、素人には10年はかかる難易度だが、店頭に80ミリ以上の飼育個体が並ぶ中では見向きもされないのが現実だ。

 さて、やっと本題に入ろう。本書は今の時代に、人生を懸けて天然個体を探している男たちの物語である。

「そんな価値のなくなったものに人生懸けてどうするの?」

 確かに、高層ビルのオフィスフロアをスーツ姿で闊歩(かっぽ)する若者にとっては、彼らは“時代遅れの男たち”に映るであるかもしれない。だが、世間の価値基準に揺れることなく、自分の好きなことを貫ける大人が、今の時代にどれだけいるのか? 彼らの言葉に耳を傾けてくれ。

「この日本にはまだ人間が踏み入れたことのない自然林が多く残されている。その中でひっそりと生き抜いているオオクワガタの姿を、自分の目で確かめたい」

 ロマンチックすぎて笑止と言われそうな気もするが、男たちを突き動かすのは、子どもの頃からのオオクワガタへの憧れと冒険心である。焦がれども、焦がれども、出会うことができなかった想いは、永遠に冷めない恋心になった。その気持ちは、もはや飢えといってもいい。夜、瞼(まぶた)を閉じると遠い山の中で、大木のウロから顔を出すオオクワガタの姿が浮かぶ。そうなると明日が仕事であろうと、衝動を抑えることができない。

「ちょっと山に行ってくる」

 妻にそう言い残して、愛車にキーを差し込む。どんな辺境だろうと、途中に何が待ち構えていようと躊躇(ためら)いはない。中央道、東北道、関越道をひた走りながら、今夜会えるかもしれない相手に想いを馳せる。妻には「本当に虫なの?」と浮気を疑われながら。

 彼らが山での実体験で得た知識、観察眼、思考には、驚きの連続だった。読者はどんな図鑑にも、学術書にも書かれていない、オオクワガタの秘密に直面することを約束しよう。「たかが虫」という認識が、大きく変わっていくはずである。

「日本が世界からとり残されつつある時代に、なんで虫採り?」と言わないでくれ。行き詰まるときこそ、忘れてはいけない情熱があるのではないか。しばし、筆者と一緒に愛すべきドアホウたちの背中を追いかけてほしい。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて


「昆虫の王様」といわれるオオクワガタ(写真/インフィニティー・ブラック)

野澤亘伸(のざわ・ひろのぶ)
1968年栃木県生まれ。写真家、作家。上智大学法学部卒業後、1993年より写真週刊誌『FLASH』の専属カメラマンになる。おもに事件報道、芸能スクープ、スポーツなどを担当。同誌の年間スクープ賞を3度受賞。その後フリーとなり、雑誌表紙やグラビア、タレント写真集など多数撮影。2019年に『師弟 棋士たち 魂の伝承』(光文社)で第31回将棋ペンクラブ大賞受賞。その他の著書に『美しすぎるカブトムシ図鑑』(小社)、『絆─ 棋士たち 師弟の物語』(マイナビ出版)などがある。『BE-KUWA』(むし社)で「虫のためなら、どこへでも!」連載中。

Book Bang編集部
2024年8月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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