『別れを告げない』
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『別れを告げない』ハン・ガン著
[レビュアー] 長田育恵(劇作家・脚本家)
済州島虐殺 記憶と再生
人間は人間にどんな残虐なことも出来てしまう。その事実を、私は歴史から繰り返し学んできたのに、まだ甘いと突きつけられる気がした。
それほどまでに本作は過去の事件を扱いながらも、その哀切な痛みと慟哭(どうこく)を、超自然的なアプローチを用いて、透徹した筆致で描き出していた。現在を生きる我が身に引き寄せるために。
作家本人を思わせる主人公キョンハは、光州民主化抗争を題材とした作品を書いて以降、悪夢のようなヴィジョンに取り憑(つ)かれる。私生活でも衰弱し、何度も遺書を書く精神状態の中、親友であり映像作家のインソンが指を切断し、ソウルの病院に運ばれてくる。キョンハは彼女に、実家に残してきた小鳥たちの世話を頼まれ、大雪の中を済州島に向かう。
本作の心臓部には「済州島四・三事件」がある。1948年、済州島では「焦土化作戦」が遂行され「軍と警察が村の人を皆殺しにした」。民間人3万人が殺害されたという。キョンハはインソンが当時の記録を追っていたことを知る。それは彼女の母の歴史を紐解(ひもと)くことでもあった。
「頬っぺたに雪が載っているのに、不思議なことにそれが溶けないんだってよ」――かつてインソンの母が語った溶けない雪片の記憶が、現実の大雪と呼応し、生と死の境界線を曖昧にしていく。さらに雪片のような白い羽毛を持つ、小さな鳥たちの幻影が、済州島のキョンハとソウルで入院中のインソンの魂を繋(つな)いでいく。
題は「哀悼を終わらせない」という意だが、目を瞑(つむ)り手を合わせるなど生易しいものではない。まるで彼らの痛みに心を浸し、この先の我が身にまとっていくような重さを感じさせる。だがそうすることで歩き出す力を得ることも。雪原が光を反射するように完全な闇に閉ざされはしない。小さな鳥が羽ばたくように命はまだ脈打つ。本作は死の淵で共鳴しあうキョンハとインソンが、虐殺の記憶に向きあいながら、炎を取り戻す再生の詩(うた)でもある。斎藤真理子訳。(白水社、2750円)