翌日、アキは廊下で急に話しかけてきた。
「そ、そ、その人のこと、おお教えてほしいんだ。」
その様子は「必死」以外の何ものでもなかった。ほとんど命乞いするような勢いで、アキは俺に頼んだ。俺が断ったら、土下座でもなんでもしたんじゃないだろうか。
アキの期待にはできるだけ応えてやりたかった。でも、俺だって知識は限られていたし、そもそもアキ・マケライネンの情報なんて日本に流通していなかった(みんながインターネットという「辞書」を持つようになるのは、そこから数年後の話だ)。だから俺は、アキに『男たちの朝』を貸すしかなかった。それだって一苦労だ。父の膨大なコレクションの中から、随分前に観た1本のビデオテープを探すのだから。日付が変わる頃に探し始めた結果、埃だらけのそれを見つけたのは、たしか明け方だったと思う。
アキは、そのビデオテープを宝物のように抱いて帰った。そして数日後、
「み、み、みみみ観たよ。」
俺の教室に、息せき切ってやって来た(何人か殺したようなあの顔で突進してくるものだから、クラスメイトの何人かは、本当に俺が殺されると思ったようだ)。
「ぼ、ぼ、僕かと思った。」
「だろ? 似てるってレベルじゃないよ。」
アキが、顔を真っ赤にしたのを覚えている。恥ずかしかったのではなく、興奮していたのだ(それとも、そのどちらもか)。
「やっぱりお前は、マケライネンだよ!」
俺の言葉に背中を押されたのだろうか。アキはその日から自身のことを、マケライネンだと名乗り始めた。
「ぼ、ぼ、僕はマケライネンだ。」
俺に「深沢」ではなく「アキ」と呼ぶことを求め、マケライネンと同じように無精髭を生やし、あげくの果てには、40歳で凍死すると宣言した。
40歳で死ぬなんて若すぎる。しかも凍死だなんて。健康な男子高校生の夢としては、あまりに悲惨な末路だ。
でも、当時15歳だった俺たちにとって、それは永遠に来ない未来の話だった。40年生きている奴なんて完全なおっさんだったし、40歳の人間のことを話すのは、ほとんど70歳の老人のことを話すのと同じだった。高校生にとって世界は「俺たち高校生とそれ以外」だ。未来なんて、遠くにありすぎて考えられない。しかも「フィンランドってどこ?」、そんな感じだ。
何よりアキにとって重要だったのは、マケライネンがもう死んでいる、ということだった。出逢ったときにすでに死んでいるということは、二度と死なないということだ。つまりマケライネンは、アキの中で永遠に生きているのと同じことになった。
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。
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