俺がアキに「それ」を告げることになったのは偶然だ。
担任に呼ばれ(どういう用事だったかは記憶にない)、俺はその日職員室にいた。担任は生物の教師だった。次の授業の実験器具を運ぶ役を頼まれたのが、体の大きなアキだった。
俺とアキを待たせておきながら、担任は他の教師とぺちゃくちゃ話していた。ふたりで放っておかれて、多分気づまりだったのだろう。俺はやむにやまれず、アキにこう話しかけたのだ。
「お前はアキ・マケライネンだよ!」
多分俺は、まだアキを恐れていた。「取るに足らない奴」だと認識してはいても、アキの体が巨大であることに変わりはなかったし、3、4人殺してきた雰囲気だって健在だった。きっと俺は、思春期の男子が皆きっとそうするように、「ビビってないぜ」という態度を見せようとしたのだ。そして願わくば、ちょっと変わった奴、として認識してほしかったのだろう。
「お前はアキ・マケライネンだよ!」
アキがマケライネンを知らないことは、もちろん承知の上だった、はずだ(知識を誇るのは俺の悪い癖だった。特に皆が知らない知識を)。アキは俺に突然話しかけられて驚いていた。というより、明らかにビビっていた。肩を震わせて、音が聞こえそうなほど、体を固くした。身長165センチの俺を明らかに見下ろす位置にいながら、アキはやっぱり、俺を見上げているみたいな顔をしていた。
「だ、だ、だ誰?」
その上、アキはひどい吃音だった。そんなアキを見て、俺は安心したのだろう。「知らないんだったらいいよ、こっちの話」、そんな風に嘯く必要がなくなった。つまり、素直になれた。
「すげぇ面白い奴。どんなに悲しい状況でも、どんなに苦しい人生でも、マケライネンが演じたらとにかく笑えるんだ。なんていうか、生きる勇気がもらえるんだよ。」
信じられないことに、俺はその日アキを家に誘ったらしい。『男たちの朝』を観にこないか、と。アキみたいな奴と話が弾むとは思えなかったし、得体の知れない人間を家に誘うような根性は、俺にはなかった。でもそう言ったらしいのだ。
アキは日記に、こう書いている。
『家にさそってくれた。アルバイトがあったから断った。くやしい。すごく行きたかった。』
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