【芥川賞候補作・すばる文学賞佳作】前代未聞の筋トレ小説! 石田夏穂『我が友、スミス』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

 やや妥協した気分で六キロのダンベルを両手に持つと、私はダンベル・ブルガリアン・スクワットを始めた。私がダンベルよりバーベルを好むのは、単にダンベルだと落としそうになるからだ。本来の目的である下半身が悲鳴を上げる前に握力のほうが先に参ってしまうのだ。もっともこれは筋トレではよくある事態だった。部位Aを鍛えるために、部位Bに最低限の筋力がなければならない。そうなると、まずは部位Aのために部位Bを鍛えるという、謂わば筋トレのための筋トレが生じる。懸垂のできない者が、懸垂をするためにせっせと腕立て伏せに取り組むのと同じだ。しばしば筋トレには、そうした戦略が必要になる。
 前に出したほうの脚を九十度に曲げた時、膝が爪先より前に出ると、膝を痛める原因になる。足裏の位置とフォームに注意しつつ、私の頭は、無意識に「ブルガリア」なる土地に思いを馳せていた。行ったこともなければ、今後行く予定もなく、ヨーグルトという極めて漠然とした連想しかできない国だ。世界地図の、一体どこに位置しているのだろう。
 休憩を挟みながら二十分間ダンベル・ブルガリアン・スクワットをすると、私は次の種目で十秒ほど悩んだ。スミスは依然として塞がっている。何となく国際的な気分だったため、同じ下半身系の種目であるルーマニアン・スクワットをすることにした。
 ルーマニアン・スクワットは、片足をベンチに乗せるところはブルガリアン・スクワットと同じだが、より尻と腿裏、すなわち「ハムストリングス」を狙う。この種目では膝をやや曲げたところで脚の角度を固定し、尻を蝶番(ちょうつがい)のようにしながら、上体をじっくりと動かす。可動域にこだわらず、しっかり「ハム」に負荷が掛かっているのを意識しながら行うのがポイントだ。
 ダンベルは、六キロから八キロのものに持ち替えた。背中を曲げると腰を痛める恐れがあるため、例によりチラチラと横の鏡を見ながら行う。この比較的「上級トレーニー向け」とされるGジムの壁には、至る所に鏡がある。ちなみに「トレーニー」とは筋トレをする人のことだ。これも私が最近になって使えるようになった言葉である。
 やはりルーマニアンというのだから、ルーマニア発祥なのだろうか。私は鼻先を流れる汗の痒さに耐えながら、つんと刺激の走る尻に力を込めた。やはりルーマニアがどこにあるのかは知らないが、ブルガリアに近いところにある雰囲気だ。旧共産圏的な? そういえばGジムには「ケトルベル」なるものがあった。ダンベル、バーベル、ケトルベルの重量三兄弟である。ケトルベルは薬缶に似た形をした鉄の塊で、ロシア発祥とされる。しかし「ケトル」は私が知っているくらいだから、英語じゃないのか。いずれにせよ、この業界にどういうわけか旧共産圏の気配が濃厚なのは、素人ながら実に興味深いことだった。何の脈絡もなく「サイタマン・スクワット」なる新種目が思い浮かぶと、ダンベルを慎重に床に下ろしながら、私は小さく噴き出した。何を隠そう、私は埼玉県出身だった。

石田夏穂
1991年、埼玉県生まれ。東京工業大学工学部卒。2021年『我が友、スミス』が第45回すばる文学賞佳作となり、デビュー。同作は第166回芥川龍之介賞候補にもなる。22年『ケチる貴方』で第44回野間文芸新人賞候補。23年『我が手の太陽』で第169回芥川龍之介賞候補、第45回野間文芸新人賞候補。『ケチる貴方』で第40回織田作之助賞候補。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社集英社のご案内