『麻雀放浪記』以来の傑作…桁外れに強い大学生は勝負の果てに何を失い、何を得るのか? 『雀荘迎賓館最後の夜』試し読み

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 雀荘の内観は、規模の差を除けば全国何処も似通っている。
 賃料の安い二階以上の貸店舗に、リースの電動卓を置くだけで雀荘はほぼ成立するし、どの店も内装に凝らないからだ。しかしそれでいて、雀荘の空気は店毎にハッキリ異なる。
 昭和六十年代までの八重洲や京橋には、驚く程多くの雀荘が軒を連ねる通りがあった。一部高級店を別にすると、どの店も似た造作・同じサービスで価格も違わないのに結構な流行り廃りが生じる。集客の差は総合的な店の雰囲気が原因なのだが、しかしこの雰囲気とは店側が意図して作れるものではなかった。
 雀荘の気は偏(ひとえ)に客が醸成する。店に集う客が吐き出す人気(じんき)の総和が、その店独特の個性になるのである。だから、おっとりした人柄の店主が和気藹々の場を目指しても、そこで打たれる麻雀が鉄火なら、店は必ず殺伐とした刺々しさを帯びる。その地熱のような気を、一部の客は嫌って店を離れ、或いはそれを好む新たな客が寄って来る。そうして雀荘の客層は固まっていくのだ。
 敏江が店を継いで最初に学んだのが、このアンコントローラブルだった。自分の店の雰囲気を自ら操作できない理不尽に、敏江は当初戸惑ったが、すぐに受容する。
「決めは決め、仕来りは仕来りよね。長い間ずっとそうだった事を、私独りが不思議に思っても仕方ないでしょう」
 敏江は無駄に抗わない。これは彼女の鷹揚な賢さでもあるが、もう一つ、迎賓館の客質が並外れて良いと自覚するからでもあった。
 迎賓館は二卓のフリーと五卓のセットで、かなり客層が違っている。フリー卓とは客が一人で来て四人揃った順に打ち始めるシステムで、巷のフリー雀荘と似ているが、迎賓館は座って待てば誰でも打てるわけではない。
 そもそもは開店当初、界隈の商店主から「フラッと一人で来て、ちょっとの間遊べるようにして欲しい」との要望に応えた制度だった。但し「面子を際限なく増やして欲しくない」とも言われ、新規参加は店主の責任で人選する『決め事』も併せて作られた。
 メンバーは当初、自転車屋、豆腐屋、不動産屋、化粧品店、文具店、台湾料理店、法務事務所のいずれもオーナーで、グループが出来た時全員が五十代以上だった。
 彼らは五時過ぎから徐々に集まり、三人集まれば敏江の亡夫が打ち繋いで四人目を待ち、決まって十時半には解散する。こうして今日まで細々と続いているのがフリーA卓。
 これに対しB卓は、A卓メンバーの志堂寺が自分の知己を招いて作ったグループである。法務事務所オーナーの志堂寺は敏江亡夫の古い友人で、B卓は客枯れを案じた志堂寺の新規客招致だったが、不定期のA卓と違って毎週金曜開催が十数年も守られてきた。メンバーはレストランチェーンの役員、広告会社の社員、高校教師が主体で、時に個々の友人が参加した他、A卓からの合流もあった。
 B卓メンバーはA卓よりも若かったが、麻雀打ちとしては商店街オーナー達より遥かに成熟していた。つまり両卓合わせた迎賓館の常連は大人の集団であり、この辺が店に落ち着いた空気をもたらしていたのである。
 一方セット五卓の方は水道局関連グループ(芝浦に水再生センターがある)・新聞印刷会社グループ・自動車整備会社グループ・学生グループが常連だった。
 この内学生グループは蔵前倶楽部と名乗る集団で、迎賓館の近くにグランドがある国立大学の学生達だった。サークルのようなネーミングは二十数年前、大学のゼミから生じた集団だそうで、代々続く歴史は迎賓館よりずっと古い。
 学生はフリー卓と同じく個々に来店し、四人揃った順に奥のセット卓で打ち始める。同じ大学でも倶楽部に所属していない者は参加できないが、メンバーは誰でも入店した時点の次の半荘から参加が許された。この多面子打ちのルールはユニークで、先着優先が厳しく守られる。仮に倶楽部メンバーが四人揃って来ても、先着待機者が一人居れば、四人の内の一人が摑み取りで最初から抜け番になる。六人居ればラスと三着抜けだし、二卓を使って延べ十一人参加といった開帳も珍しくない。
 しかしこの運用だと場代の精算がややこしい。二卓以上の場合、抜け番者は早く終わった順に卓に入るので、卓を跨ぐ場代の負担割合が複雑になるのだ。また、先に帰る者の場代にも公平簡明な基準が求められた。
 敏江は店を継いですぐ、この解決策を編み出す。
 学生個々に当人専用柄のオハジキやゴルフのグリーンマーカーを与える。学生は半荘終了の都度、各卓備え付けの場代缶に自分のマークを一個入れる。途中で止めて帰る者は、その時点の各卓料金から敏江が算出するマーク一個分の単価に、自分の参加回数を掛けた場代を缶に残していく。
 このシステムは参加量に応じた負担となってフェアであり、学生から歓迎された。
 また自分の名前シールが貼られた専用マーカーを持つのはボトルキープに似て、メンバー意識をくすぐる。この個人別マーカー管理は敏江に煩瑣な仕事を増やしたが、実はそれまで複数雀荘で打たれていた倶楽部の麻雀が迎賓館に集中する事になり、充分元の取れる手間と分かった。
 ずっと後になって敏江は思い知るのだが、客の年齢層が高い事は店が上品になる反面、面子に新陳代謝が無く、売上下降と同意義なのである。その点、日中から成卓する学生グループの囲い込みは、迎賓館の営業に対し大きな意味があったのだった。

大慈多聞
長く広告業界に身をおいていた以外の詳細は非公表。現役当時のモットーは“less work,more money”. 本作が初の著書になる。

新潮社
2024年7月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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